大沢樹生独白90分「ジャニーさんと光GENJIから学んだこと」 | FRIDAYデジタル

大沢樹生独白90分「ジャニーさんと光GENJIから学んだこと」

変わりゆくジャニーズを伝説のアイドルはどう見ているのか? 人生の岐路となった一本の「電話」、お別れ会でのメリーさんとの「再会」、 尾崎豊が17歳の誕生日に歌ってくれた『十七歳の地図』…

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「マイク・タイソンが大好きで、イメージトレーニングはバッチリだったけど、ゴングが鳴った瞬間、頭が真っ白になりました(笑)。対戦相手で俳優の木下ほうかさん(57)が正道会館の黒帯だと試合の2週間前に判明して、マジかよ!?と思いつつ『KOだけはされねぇぞ!』って気持ちで挑んだんですけど、映像を見返したらそこまでグダグダな試合にはなってなかったんで、恰好だけはついたかな」

8月27日に都内で行われたアマチュアキックボクシングのデビュー戦(判定負け)を、大沢樹生(みきお)(52)は冗談交じりで振り返った。’94年に『光GENJI』を脱退すると同時にジャニーズ事務所を退所。以後、俳優や映画監督など、さまざまな分野に挑戦してきた大沢の新しいチャレンジがキックボクシングなのだ。

絶頂期に辞めたジャニーズアイドルは後にも先にも大沢だけ。親にも反対され、脱退反対の署名が数万筆届いた
絶頂期に辞めたジャニーズアイドルは後にも先にも大沢だけ。親にも反対され、脱退反対の署名が数万筆届いた

取材場所に地下鉄でやってきた伝説のアイドルが、激動の半生を振り返る。

「『光GENJI』にいたから、いまがある。ジャニー(喜多川)さん、(藤島)メリーさんからいろいろ学ばせてもらったから、いまがある。それは間違いないです。お二人が亡くなったときの感覚は、両親を亡くしたときと同じでしたから」

人生の岐路となった電話がある。相手はジャニー氏だった。大沢は小学生のころからジャニーズ事務所で活動していたが鳴かず飛ばず。高校生になった大沢はある日、ジャニー氏に電話して「事務所を辞めたい」と告げた。「わかった」とあっけなく電話は切れたが、30秒もしないうちにコールバックがあった。

「ジャニーさんからで『ユー、ローラースケートやんなよ。絶対スターになれるよ』と。ポカンとしましたが実際、その通りになった。『光GENJI』というネーミングも最初はどうかと思ったけど、見事にハマった。ジャニーさんが目を付けると、『どうしてこの子が?』というジュニアでも必ず売れる。原石を見つけて、輝かせる才能に溢(あふ)れていましたね」

かくして、睡眠は車での移動時だけ、バレンタインデーにはチョコが1㌧届くスーパーアイドル・ライフが始まった。

「生放送の歌番組だけで『歌のトップテン』、『夜のヒットスタジオ』など、週に4つもありましたからね。同時にコンサート、新曲のプロモーションをこなして、ドラマ仕立てのバラエティにも出てました。これは後に『SMAP』に受け継がれました。いまのアイドルなら、体調を崩したり、ケガしたらコンサートは中止になりますが、『光GENJI』は何があっても穴をあけなかった。ステージから落ちて脛(すね)を切ろうが、骨にヒビが入ろうが『ユーたちの代わりはいないから』って強行する。脚を引きずることもパフォーマンスにしろ、と。

厳しかったですし、キツかったですけど、あの日々を経験したから、どんな大変なことが起きてもビクともしない自分になれました」

脱退・退所へと大沢を突き動かしたのは向上心だった。ファンと一緒に『光GENJI』も成長すべき、ローラースケートを脱ぐことも考えるべき、との大沢の意見は受け入れられなかったのだ。

「いまなら、俳優やタレントなど、アイドルの次のステップがある。だから『SMAP』や『TOKIO』のような〝不惑のアイドル〟が成立するんですが、当時のアイドルには先がなかった。ターゲットは常に幼稚園児から高校生までで、彼らの好むことをする。同じことを繰り返している感覚に陥りました。年齢を重ねてもヒラヒラの衣装を着続けて、アイドルを演じ切ることが僕はできなかった。

メリーさんも僕の気持ちに気付いていて『光GENJIを辞めたい』と伝えたら、『それは感じていたわ』と言ってくれました。ただ、事務所まで辞めるとは思っていなかったみたいで、そう告げると顔色が変わってしまいましたが……」

以来、会う機会がなかったメリー氏と大沢が再会したのは’19年のこと。ジャニー氏のお別れ会がその舞台だった。

「事務所のスタッフさんから『メリーさんと会いますか?』と電話が来たんです。二つ返事でした。メリーさんは会うなり『樹生〜!』って、ちゃんと覚えていてくれた。ところが、同行していた先輩の川﨑麻世さん(58)がメリーさんに抱き着いて泣き出しちゃって、『ちょ、待てよ!』と(笑)。近藤真彦先輩(57)、亀梨和也君(35)とか、メリーさんのお気に入りの人たちもいて、藤島ジュリー景子社長(55)とも会えた。なんだか同窓会みたいで楽しかったですね。変な言い方ですけど、こんな機会を作ってくれたジャニーさんには改めて感謝しています」

大沢の向上心が生んだ縁がある。まだ10代だったころ、人脈作りのために通っていた六本木のバーで出会い、頻繁に会っていたのが尾崎豊だった。

「当時は携帯がなかったので、とくに約束はせず、バーに行くと彼がいるって感じでしたね。二人とも売れる前で『これ、次に出すアルバム』とデモテープをもらったこともあります。ほぼ毎晩、一緒にいました。僕の17歳の誕生日にナマ歌で『十七歳の地図』を歌ってくれたことは一生の思い出です。そのうち、お互いに忙しくなって会う機会が減り、豊くんの訃報を聞いたのはロケ先のドイツでした」

自分を高めるため、ジャニーズ事務所を飛び出した大沢。挨拶回りに出向いたテレビ局やレコード会社で、いきなり厳しい現実を突きつけられた。

「『樹生〜、当分仕事はできねぇな!』とハッキリ言われましたね。ジャニーズが手を下さなくても、忖度(そんたく)って絶対ありますよ。芸能関係の知人たちがサーッと引いていきました。若かったし、頭に来ることもありました。ただ冷静になれば、どっちと関係を保つほうがいいのかわかりますよね。高級ブランドの服もタグを取っちゃえば、ただの服。僕は『光GENJI』というタグを自分で切っちゃったわけです。退所者が続出しているいまのジャニーズ事務所を見ると、時代の変化と世代交代の波を感じますね」

アイドル時代の自分を拒絶し、他人を信用できずに「メンタル的にキツい時期が10年ほどあった」と大沢は言う。だが、これまで生きてきたなかで「いまがいちばん楽しい」と力を込めた。

「去る者がいれば、新たに手を差し伸べてくれる者もいる。苦難や挫折は引き出しになる。いろんなことがありましたけど、いま思えば何ひとつ無駄なことはなかった。自分がやりたかったこと、すべて叶(かな)えてきているわけですしね。キックボクシングも人とのご縁でチャンスが巡ってきたんですが、サンドバッグを殴っていると身体は爽快だし、ストレス発散できてメンタルにもいい。次は12月に戦う予定なので、必ずリベンジしますよ!」

『光GENJI』元メンバーの誰よりも「大沢樹生」というタグが輝いている。

『光GENJI』のライブであえて大沢(右端)はハードロックに挑戦し、会場を静まり返らせた
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アマチュアキックのデビュー戦に臨む大沢。ファイトマネーはゼロ円で「練習費用は持ち出しですよ!(笑)」
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「以前より人が好きになった」と笑う。「縁あって馬肉料理屋のプロデュースもやっています」
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FRIDAY2021108日号より

  • 取材・文栗原正夫PHOTO濱崎慎治

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