大学ラグビーの人気が罠 川淵三郎氏が語るラグビープロ化成功の鍵 | FRIDAYデジタル

大学ラグビーの人気が罠 川淵三郎氏が語るラグビープロ化成功の鍵

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ラグビー界の未来像を身振り手振りを交えて語る川淵三郎氏
ラグビー界の未来像を身振り手振りを交えて語る川淵三郎氏

サッカーJリーグを発足し、バスケット界の混乱を収束させ、Bリーグ発足に尽力した川淵三郎氏がラグビー界へ「愛のムチ」だ。ラグビーのプロ化が実現したとき、何をもって「成功」とするのか。サッカー界のプロ化の当初は決して賛成派ではなかった川淵氏ならではの冷静な視点で、ラグビー界や陣頭指揮をとる日本ラグビーフットボール協会・清宮克幸副会長へ提言した。

「プロリーグの成功の指標はまず入場者数。これに尽きる。清宮君に『見に来てくれるお客さんの数はいくらで見積もっているの?』と聞いたら、彼は『1万5000人です』と。でも今の感じでいくと、僕は(その数字に到達できるか)想像がつかない。その数を再来年、としているプロ化のスタート時から目指すのなら、もう来年1月のトップリーグ開幕から地域へのアピールとか、携わる人のプロ化にむけて動かす。携わる人をその気にさせるということが大事だと思う」

1993年に開幕したサッカーJリーグも、4年目以降は観客動員に苦労した。それまでは、2年目の1994年に記録した平均観客数1万9598人がトップだった。バブルが崩壊した1997年には1万131人まで落ち込み、2002年の日韓ワールドカップ後も大幅増にはならず。リーグ終盤になった今季、目標の年間平均観客動員2万人をついに突破する見通しとなった。スタートから27年かかった。

「イニエスタが来てくれて、今季初めて2万人の壁を突破しそうだけど、Jリーグは1試合平均2万5000人までコンスタントにいけるようにならないとね。それにはソフト、ハード両方の課題があるけれども、サッカーの場合、ソフト面でいえば、日本選手のレベルは確実に上ってきた。ハード面はJ2のV・ファーレン長崎で高田(明)さんが、J1ヴィッセル神戸でも三木谷(浩)さんが6万人のサッカー専用スタジアムを作る、という話も聞いていて、お客さんに来ていただけるそれ相応の『器』が各地にできる動きがある。
僕はラグビーW杯が決まったとき、『秩父宮ラグビー場がすごい専用スタジアムになる』と一番初めに思ったんだ。でも実際は、東京五輪の時に一時、駐車場になり、その後に建て替えると聞いて、動きが遅いと感じたね」

Jリーグ開幕前、サッカー人気が低迷していた頃、ラグビーは大学ラグビーを軸に人気があった。しかし、その人の集まり方にある種の「落とし穴」が潜んでいた。

「ラグビーの実力は企業チームの方が強かったよね。それでも大学ラグビーが超満員になったのは、大学に対する愛着があったからだと思う。僕が(早稲田)大学の時にサッカーの練習にいくと、土日は(隣の)ラグビー部の練習場にOBが親子連れで来ていてグラウンドをぐるっと一周回るくらいいてうらやましかったね。スタンドにも、親子で来ていたのだろうけど、ラグビーの本当のおもしろさを知って観戦に来たかといえば必ずしもそうじゃないと思う。企業のラグビーのレベルが大学より高いのに、観客動員は増えなかった。大学ラグビーの人気が、ラグビー人気そのものだと錯覚してしまったこともあったよね」

川淵氏はサッカー界のプロ化に向けて舵を切った当初、意外にも「そんなもの成功するわけがない」と否定的だったという。しかし、やらなければいけない運命的な出来事が次々とおきた。

「51歳で、古河電工100%の子会社に出向しろと言われた頃、日本サッカーリーグでは若手の運営委員らが『プロ化』を話し合っていた。でも、当時の日本のサッカー界は実力も人気もない、スター選手もいない、専用スタジアムもない。ないないづくしなのに、よくそんなことが言えるなって思っていたよ(笑)。時を同じくして、日本リーグの総務主事にならないかという話が舞い込んできた。それで、このままサラリーマンで終わってもつまらない、この後の人生、サッカーの大改革に賭けよう。プロ化が成功するかどうかわからないけど、日本のサッカーを誰がみてもおもしろいものにすることは、俺ならできるかもしれないと考えて、総務主事を引き受けたんだ。初めは冷めた目で見ていたけど、1年くらいやって『プロ化しなければダメだ』と思うようになっていった。最初から『プロ化、プロ化』とのめり込んではいなかったから、Jリーグのプロ化が成功したと思う。客観的に、かつ批判的な目で見てきたことで、成功の道筋を見出せたということじゃないのかな」

「日本サッカー界の2.26事件」

ラグビー人気が高かった1985年、当時の国立競技場で行われた早慶戦(写真:アフロ)
ラグビー人気が高かった1985年、当時の国立競技場で行われた早慶戦(写真:アフロ)

プロ化をせざるを得ないと決断する転機があった。1989年2月26日。国立競技場で読売や三菱など当時の日本リーグ人気チームによるダブルヘッダーを行なった。観戦希望を往復はがきで募ると、10万人も応募がきた。しかし試合前日に大雨となり、キャンセルが続出。当時の発表で観衆4万1000人、実際は2万8000人にとどまった。

「日本サッカー界の『2.26事件』と言っているんだけど(笑)、前日の雨でキャンセルはたくさん出たけど、呼びかけたら来てくれるという手ごたえは得た。でも、ピッチは高麗芝だから茶色だし、試合後に弁当の包みが風で舞っていたのを見て、こんな環境で『いい試合をしろ』と言ってもダメだと思った。
それまで僕は選手たちに『君たちがいい試合をしなければお客さんは来てくれない』と選手を鼓舞していたんだけど、それは違うと。選手が頑張れる素晴らしい環境を僕らが作らなきゃいけない、と気づかされた。それが2月26日。この日は僕がサッカーのプロ化にむけて動かなければと決心した日だった。
一年中、緑の芝、お客さんたちの大歓声。そういうものがあって初めて『プロ』として成り立つ。それに初めて気づいた日でもあった。これをきっかけに全国各地、ほんとうにあちこち回ったよ。プロ野球と同じ意味の『サッカーのプロ化』ではなくて、『Jリーグは地域密着という考えでプロを作ろうとしています』ということをね。
最初にお伺いしたのは横浜市長の高秀さん(故・高秀秀信氏)だった。『ひとつのスポーツだけを応援するわけにはいかない』と言われたんだけど、『将来は多くのスポーツを一緒にやります』など、いろいろ話をさせていただいたら、納得していただき、すぐに三ツ沢球技場を1万5000人のスタジアムに改修してくれた。だから清宮君もフル稼働して、とにかく現場に行って、多くの味方をつければ成功に導けると思う」

川淵氏がJリーグをスタートした時と清宮氏がラグビーのプロ化を決意した年齢は奇しくも52歳と同じだ。

「50代というのはこれからの自分、またその先、どう散るかということを一番考えた時だった。清宮君にとっても(ラグビーのプロ化は)自分の人生をかける大事業だと思う。『これを成功させることが俺の残された人生そのものだ』と彼は思っているだろう。それが一番強い力になる。そう考えることが出来る人もそんなにはいない。もちろん僕は彼の応援団になる。彼なら間違いなく成功させると思っているからね」

早大、サントリー、ヤマハ発動機で監督をつとめた日本ラグビーフットボール協会・清宮克幸副会長。現場を知り尽くした男はプロ化をどう実現させるのか(写真:アフロ)
早大、サントリー、ヤマハ発動機で監督をつとめた日本ラグビーフットボール協会・清宮克幸副会長。現場を知り尽くした男はプロ化をどう実現させるのか(写真:アフロ)

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