もし野村克也がいなければ…日本球界史はこんな風に変わっていた | FRIDAYデジタル

もし野村克也がいなければ…日本球界史はこんな風に変わっていた

昭和の大打者・野村克也の陰に隠れた選手を掘り起こす!

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東映フライヤーズ時代の張本勲。日本一の安打製造器だった
東映フライヤーズ時代の張本勲。日本一の安打製造器だった

野球史に残る大選手の陰には、往々にしてその偉業に隠れて埋もれてしまう選手が出てくるものだ。2月11日に死去した大打者、野村克也の偉業の陰に埋もれた選手もいたのだ。

野村克也は、首位打者1回、本塁打王9回、打点王7回、三冠王1回、MVP5回に輝いている。本塁打王、打点王の回数はパ・リーグ1位。NPB全体でも本塁打王15回、打点王13回の王貞治に次ぐ。

野村克也が打撃タイトルを初めて獲得したのは1957年、30本で本塁打王を獲得した。しかしそこから3年間はタイトルに縁がなかった。この時点では「強打の捕手」のレベルだった。

しかし1961年に2度目の本塁打王になってからは、すさまじい打撃を見せるようになる。

1961年から68年まで8年間での、パ・リーグの打撃3部門(首位打者、本塁打王、打点王)のタイトルホルダーはこうなっている。

1961年 張本勲(映).336/  野村克也(南)中田昌宏(急)29本/ 山内和弘(毎)112点
1962年 ブルーム(近).374/  野村克也(南)44本/ 野村克也(南)104点
1963年 ブルーム(近).335/  野村克也(南)52本/ 野村克也(南)135点
1964年 広瀬叔功(南).366/  野村克也(南)41本/ 野村克也(南)115点
1965年 野村克也(南).320/  野村克也(南)42本/ 野村克也(南)110点
1966年 榎本喜八(東).351/  野村克也(南)34本/ 野村克也(南)97点
1967年 張本勲(映).336/  野村克也(南)35本/ 野村克也(南)100点
1968年 張本勲(映).336/  野村克也(南)38本/  アルトマン(東)100点

(南)南海 (映)東映 (急)阪急 (毎)大毎 (近)近鉄 (東)東京

8年間、24のタイトルを延べ25人が獲得したが、このうち野村克也は15を獲得している。まさに寡占状態と言ってよい。

1962年から1967年は、本塁打、打点のタイトルを6年連続で獲得。このうち1965年は戦後初の三冠王に輝いている。前年、野村は3年連続で二冠王に輝きながら年俸を下げられ、発奮したという。この年から野村はバットを短めに持つようになり内角打ちがうまくなり、キャリア唯一の首位打者を取った。

しかも野村克也は、この間、捕手として南海ホークスの本塁をほぼ一人で守り抜いていた。まさに驚異的な活躍だったのだ。

もしこの期間、野村克也がいなければ、タイトルホルダーはどう変わっていたのか? 野村が取った15のタイトルを2位の打者に置き換えるとこうなる。

1961年 張本勲(映).336/  中田昌宏(急)29本/ 山内和弘(毎)112点
1962年 ブルーム(近).374/  張本勲(映)31本/ 張本勲(映)99点
1963年 ブルーム(近).335/  張本勲(映)山内一弘(和弘から改名・毎)33本/ 張本勲(映)96点
1964年 広瀬叔功(南).366/  スペンサー(急)36本/ 土井正博(近)98点
1965年 スペンサー(急).311/  スペンサー(急)38本/ 張本勲(映)88点
1966年 榎本喜八(東京).351/  張本勲(映)28本/ 張本勲(映)90点
1967年 張本勲(映).336/  スペンサー(急)30本/ 土井正博(近)93点
1968年 張本勲(映).336/  アルトマン(東)大杉勝男(映)34本/  アルトマン(東)100点

張本勲が本塁打王を3回、打点王を4回、ダリル・スペンサーが首位打者1回、本塁打王を3回、土井正博が打点王を2回、山内一弘とジョージ・アルトマンと大杉勝男が本塁打王を各1回、野村に代わって獲得したことになる。

張本勲と言えば、NPB最多の3085安打を打った「史上最高の安打製造機」だと言われる。しかしタイトルは首位打者7回だけ。これはイチローと並ぶNPB最多記録だが、それだけにスラッガーという印象はない。しかし野村がいなければ二冠王を3回も獲得していたことになる。

張本勲は、昭和中期、野村克也に次ぐ強打者だった。もし首位打者以外のタイトルを1つでも獲得していたら、張本勲の歴史的評価は変わっていたかもしれない。

張本は、バットを斜め前に突き出した構えからノーステップで振り下ろす独特の打法でライナー性のホームランを量産していたのだ。通算504本塁打は7位タイだ。

土井正博は19歳で近鉄の4番を打った早熟の強打者だったが、好成績を挙げながらも打撃タイトルに縁がなく、長く「無冠の帝王」と呼ばれた。太平洋に移籍した1975年に32歳で本塁打王を獲得しているが、野村がいなければ1964年、21歳で早くも打点王のタイトルを獲得していたことになる。

そして1965年、野村の三冠王を阻止するために激しい執念を燃やしたダリル・スペンサーは4つのタイトルを得ていたことになる。スペンサーは「私が、日本の野球殿堂に入る日を楽しみに待っている」と言いつつ殿堂入りすることなく2017年1月に世を去ったが、タイトルに縁がなかった。首位打者1回、本塁打王3回を獲得していれば評価が変わったかもしれない。

スポーツに「たられば」は禁物だというが、「もし彼がいなかったら」と考えるのは、その選手の業績を評価するうえで有効だ。

野村克也は昭和中期のプロ野球を代表する強打者だった。記録を振り返って、そのことを改めて確かめた次第だ。

  • 広尾 晃(ひろおこう)

    1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライターやプランナー、ライターとして活動。日米の野球記録を取り上げるブログ「野球の記録で話したい」を執筆している。著書に『野球崩壊 深刻化する「野球離れ」を食い止めろ!』『巨人軍の巨人 馬場正平』(ともにイーストプレス)、『球数制限 野球の未来が危ない!』(ビジネス社)など。Number Webでコラム「酒の肴に野球の記録」を執筆、東洋経済オンライン等で執筆活動を展開している。

  • 写真時事通信社

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