みんな猪木に夢中だった!昭和を沸かせた「金曜8時プロレス列伝」
失神! 暴動! 襲撃! 「金曜8時」のエキサイティングな時間が帰ってくる
この4月から、新日本プロレスが毎週金曜夜8時にBS朝日で放送されるというニュースが話題になった。昔からのプロレスファンなら誰もがピンとくるだろう。かつて、金曜夜8時のプロレス中継がお茶の間で楽しまれていた時代があったのだ。
日本で初めてプロレスが中継されたのは1954年。力道山が外国人レスラーを次々となぎ倒す場面は日本中を熱狂させた。その後、1970年代になるとその弟子のジャイアント馬場とアントニオ猪木が人気を博すようになる。当時、日本プロレスに所属していた彼らが出場する試合は、NHKや日本テレビでもレギュラー放送され、特に日本テレビは1958年から金曜夜8時のゴールデンタイムにプロレス中継をスタートさせ、「プロレスといえば金曜8時」を定着させた立役者でもある。
その日本テレビの後追いとなるが、テレビ朝日(当時はNET)が1973年に「ワールドプロレスリング」で、アントニオ猪木が立ち上げたばかりの新日本プロレスの中継をスタート。この「ワールドプロレスリング」では、アントニオ猪木を筆頭にした新日本プロレスの個性的なプロレスラーがお茶の間を賑わせた。
そこで「金曜8時のプロレス」が復活したことを記念して、多くの名勝負・名場面を繰り広げた「ワールドプロレスリング」の中から、プロレスファンや世間をも巻き込んで大騒ぎとなった試合を振り返ってみたい。

猪木舌出し失神事件<1983年6月2日 東京・蔵前国技館>
新日本プロレスの最強王者の証であるIWGP王座。その初代王座をかけて、アントニオ猪木とハルク・ホーガンが激突した試合はいまでも語り継がれる世紀の一戦だ。
白熱した試合が繰り広げられる中、場外でホーガンの必殺技・アックスボンバーを食らった猪木はダウン。セコンドの選手たちによりリングへ戻されたものの、猪木は舌を出して失神したまま! 試合もそのままホーガンの勝利となり、猪木は救急搬送されるという事態に。翌日の一般紙でもその模様を報道するなど、プロレスファンのみならず、世間をも大騒ぎさせたプロレス史に残る事件だ。翌日の3日(金)にはその試合の模様が放送され、猪木ファンを中心に衝撃がさらに広がる展開となった…。
プロレス世界最強の称号として創設されたIWGP王座。日本のプロレスファンの誰もが、その初代王座につくのはアントニオ猪木だと信じて疑っていなかっただけに、この失神KO劇は大きな衝撃だった。
ところが。この事件には裏がある。実は「猪木の自作自演だった」という説だ。
2000年以降に出版された本に収められた関係者たちの話をまとめると、猪木はプロレスマスコミだけでなく、読売、毎日、朝日などの新聞にも取り上げられるような注目度の高い試合にしたいという思惑があったようだ。となると、白熱した試合よりも“事件”になった方が話題になると考えた。そこで、周囲の関係者には何も言わず、もしくはそれとなく匂わせつつ、ホーガンのアックスボンバーを受けて失神(したふり)をしたという流れ。この猪木の迫真の失神は翌日、読売新聞や日経新聞の朝刊で報じられるなど、見事に思惑通りとなった。
そもそも、この試合も含めプロレスは試合前から勝敗が決まって(いるらしい。※いちプロレスファンとして明言は避けますね)いて、この試合も猪木が勝つ予定だった。そのため、相手のホーガンも大いに狼狽したが、その様子をリング上で見せるわけにはいかず、ポーズを決めながら心中では猪木の心配をしていたという。
この“事件”後、当時新日本プロレスで副社長を務めていた坂口征二は「人間不信」と書置きをして姿を消したり、猪木のもとに刑事がやってきたりと、リング外の後日談も豊富にあるのだが、それはまた別の機会に。

蔵前国技館暴動事件<1984年6月14日 蔵前国技館>
前述の「猪木舌出し失神事件」から約一年後、同じ蔵前国技館で「第2回IWGP優勝戦」が行われた。対戦カードは因縁のハルク・ホーガンvsアントニオ猪木だ。多くのファンが「今度こそ、猪木がIWGPの王座に就く!」と信じて疑わなかった。一方、運よくIWGP王者となったホーガンはその後、アメリカでもWWFのチャンピオンとなっており、いくら猪木といえども、そう簡単に勝たせてもらえるようなレスラーではなくなっていた。
とはいえ、ファンに対してもここでIWGP王者にならなければ申し訳が立たない猪木が出したのは「両者リングアウト」からの延長戦、そして長州力が乱入して場外でホーガンに攻撃している間に猪木がリングに戻り、勝利するという結末だ。※場外にいるレスラーは20カウント以内にリングに戻らないとリングアウト負けとなる。
白熱した試合はもつれにもつれ、17分51秒、両者リングアウトで引き分けに終わるが、納得のいかない観客は満場一致「延長」コール(この「延長コール」は当時新日本プロレスでも定番化していて、猪木はこのコールが起こることも織り込み済みだったようだ)。そこで延長戦に突入するも、再び両者リングアウトに。さらに巻き起こる「延長」コール…。異例の再延長戦に突入し、予定通り長州の乱入によって猪木が勝利を収め、超満員の観客も納得! めでたしめでたし――となるほど、当時のプロレスファンは大人しくなかった。
1年もの間、猪木の雪辱のときを待ち望んできたファンにとっては消化不良どころではない試合内容に加え、長州の乱入によって試合がぶち壊されたことで不満が爆発。リング上にイスやゴミが投げ込まれ、リングは暴徒と化したファンに囲まれ、アナウンスだけではとうてい収拾がつかず、警察が暴動を鎮静化するために出動する事態となった。これがいわゆる「蔵前暴動事件」である。この模様も事件の翌日にテレビ中継されている。
この試合後、当時新日本プロレスで副社長を務めていた坂口征二が怒り狂うファンに囲まれ、その代表と話し合いでなんとかその場を収めたという逸話をはじめ、後日談も豊富にあるのだが、それはまた別の機会に。

タイガーマスク鮮烈デビュー<1981年4月24日 蔵前国技館>
さて、猪木関連のきな臭い事件が続いたが、こちらはよい意味で日本中を熱狂の渦に巻き込んだプロレスラーのデビューである。それが、タイガーマスクだ。その正体は1975年に新日本プロレスに入門した佐山聡。小柄ながら卓越した身体能力を買われタイガーマスクの大役を任された。
デビュー戦は、それまで相手と組み合って力比べをしながら試合を組み立てる従来のスタイルと違い、華麗なフットワークで相手と距離を取り、スタイリッシュなスピンキックや予測不能の動きを見せる“四次元殺法”で観客を魅了。この一戦がテレビ中継されると瞬く間にブームとなり、「ワールドプロレスリング」は毎週のようにタイガーマスクの試合を放送し、20%を超える視聴率をたたき出すほどの人気番組となっていった。
しかし、そのタイガーマスクはデビューから2年後の1983年8月4日の試合を最後に新日本プロレスを離脱。もともと本格的な格闘技を志していた佐山は、その人気とは裏腹にショー的な要素の強い試合を繰り返すことに苦悩していたという…。
後に素顔をさらした佐山聡は「あなたにとってタイガーマスクとは?」の問いに「ただの布切れ」と答えた話は有名。その後、新団体のUWFの旗揚げに参加したり、自身のジム「スーパータイガー・ジム」を創設して後進の指導に当たったり、シューティング(現・修斗)を創設したりするなど格闘技界の発展に大きく貢献している。ちなみに現在の総合格闘技の試合で使用しているオープンフィンガーグローブは、もともと佐山が考案したグローブが原型になっている。
タイガーマスクこと佐山聡はプロレスにも総合格闘技にも大きな影響を与えた重要人物なのである。ほかにも、イギリスで武者修行中の佐山をタイガーマスクとしてデビューさせるために日本に呼び戻そうとしたが、税金を払っておらず出国できないというトラブルを解決するために元首相が動いたり、佐山が選挙に立候補して落選したりとエピソードには事欠かない人物なのだが、それらはまた別の機会に。

場外乱闘(番外編):タイガー・ジェット・シンによる新宿・伊勢丹前猪木襲撃事件
さて、金曜8時に「ワールドプロレスイング」が放送されていた時代は、その放送内、リング上に関わらず多くの事件が起きていた。とりわけ、世間を騒がせたという意味での大事件で言えば、稀代の悪役レスラーで“インドの狂虎”ことタイガー・ジェット・シンによる「新宿・伊勢丹前猪木襲撃事件」だろう。
1973年11月5日、新宿で買い物をしていたアントニオ猪木と当時の妻で女優の倍賞美津子と買い物をしていたところ、伊勢丹前で突然シンに襲撃され、頭部から出血する大けがを負ってしまうという大事件だ。多くの人がいる中でのシンによる凶行は、プロレスファン以外の人々をも震撼させ、何をするかわからない恐怖の男・シンを強烈に印象付けた。
で、ここまで読んでいただいた方なら当然お気づきかと思うが、これも猪木が企画・立案した事件である(出血も猪木が自分でやったという)。目撃した一般人からの通報で警察も出動し、新日本プロレスの関係者も取り調べを受けるなど、大騒ぎとなり、猪木の目論見通りこの事件は一般紙でも大きく報じられた。傷害事件として扱おうとする警察に対して、新日本プロレスは「シンが勝手にやったが、あくまでも内部の問題なので…」とごまかしたという。
こうしてリング内外で存分に暴れまわり、その危険な存在感でファンを魅了し、また恐怖させたシンではあるが、新日本プロレスのレフェリーで長年外国人選手の世話役を務めたミスター高橋はシンとの初対面を振り返り「ビシっとスーツで決めたビジネスマンのような男で、名刺を差し出してきた。かつて名刺を渡してきたレスラーなどいなかった」と語るほど、常識人だったという。「悪役ほどいい人」というプロレス界の定説を地で行く人物だった。

「ワールドプロレスリング」は1986年まで金曜8時に放送し、その後月曜8時に移行したり、視聴率の低迷から深夜帯の放送に移行したりして今でも放送を続けている。現在は華のあるレスラーが派手な技を連発して観客を魅了しているが、金曜8時のプロレスはもっと殺伐として、緊張感が漂う試合ばかりだった。もちろん、今のプロレスのスタイルが時代に受け入れられていて、選手の体格やレベルも格段に向上しているので「昔の方がよかった」というつもりはまったくない。
だけど、あのヒリヒリした緊張感がなつかしくなり、手元のDVDや本などをときどき見返している。現代のファンの人にもかつて、そんな「金曜8時のプロレス」があったということを知ってもらえると、いちファンとしては僥倖でございます。
参考文献:「ケーフェイ」(佐山聡/ナユタ出版会)、「新日本プロレス10大事件の真相」(佐山聡、新間寿、ミスター高橋、ターザン山本ほか/宝島社)、「昭和プロレス迷宮入り事件の真相」(井上譲二/宝島社)、「流血の魔術 最強の演技 すべてのプロレスはショーである」(ミスター高橋/講談社)、「悪役レスラーのやさしい素顔」(ミスター高橋/双葉社)、「燃えろ!新日本プロレス Vol. 1 猪木、舌出し失神事件!」(集英社)
取材・文:高橋ダイスケ