「このユニフォームを着てみたかった」野村克也がつぶやいた巨人愛

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1995年11月、宮崎秋季キャンプで談笑するヤクルトの野村克也監督(左)と巨人の長嶋茂雄監督

「長嶋とは本当は仲が良かった」

195勝328敗―――。2月に亡くなった野村克也さんが、再建を託された南海、ヤクルト、阪神、楽天の4チームの監督に就任する前年のそれぞれのチーム成績を合わせた勝敗である。勝率にして.373。「戦力の整ったところで監督をやってみたかったよ」とボヤくことしきりだった野村さんがもっとも率いてみたかったチームは巨人で、監督として手本にしたのは巨人をV9に導いた川上哲治さんだった。

「私が楽天のコーチを任せてもらっているときも、戦力に恵まれたチームを率いてみたいとコボすことはありました。その1番が巨人。『注目もされて、戦力もある。巨人の監督をやりたかったな。もう、この年齢じゃ、無理だろうけど』と、夢を語るように言っていたのを覚えています」

そう回想するのは2006年から4年間、守備走塁コーチ、ヘッドコーチとして監督だった野村さんを支えた橋上秀樹氏だ。

「やっぱり注目されたいと思っておられたでしょうし、どこかに長嶋茂雄コンプレックス、巨人コンプレックスというのがあって、それを頑張る支えにもされていた。ただ、コンプレックスを払しょくするためには巨人で監督をするしかなかったんでしょうね。
 野村さんが楽天の監督を勇退された後、私は2012年から3年間、巨人でコーチを務めさせていただきましたが、解説者として野村さんが東京ドームに来られるときはホームチームの練習の終わる16時くらいにメディア用の食堂で食事を摂られるんです。私はそこに必ず挨拶に行っていましたが、『ええなぁ、俺もこのユニフォーム、1回、着たかったんだよな。このユニフォームは俺たちの憧れなんだよ』と、よく言われました」

現役時代からライバル視していた長嶋氏とは監督になってからもしのぎを削った野村さん。特にヤクルト時代は野村さんが舌鋒鋭く巨人や、長嶋監督を“口撃”するのをマスコミはことさらにクローズアップし、対立構図ができあがっていった。だが、野村さんの本音は言葉とは裏腹だったという。

「1992年から97年の優勝チームはヤクルトか巨人のどちらかだったように、両チームは最大のライバル。そうしたこともあって長嶋さんも野村さんが言っていることが本当の気持ちからだと思ってしまったのかもしれません。しかし、野村さんは楽天監督時代、『巨人も好きだし、長嶋とも本当は仲が良かった。ただ、現役のときなら南海、監督のときならヤクルト、阪神を盛り上げるために巨人、長嶋の悪口を言うしかなかった。それで、あえて名前を使わせてもらったんだ。本心じゃないし、現役のときは長嶋もそれをわかってくれていた。でも、そのうちに本気と取り出して、最近じゃ目も合わせてくれない。俺は寂しいんだよ』と嘆かれることもありました」(橋上氏)

その瞬間、雷に打たれたように立ち上がった

胸の内に収めた「巨人愛」の根元は、神様・川上哲治さんだった。

「野村さんが子供のころは『赤バットの川上、青バットの大下』の時代。野村さんは川上さんに憧れ、巨人ファンだったんです。それだけでなく、監督としても川上さんをお手本として、仲の良かった元西武ライオンズ監督の森祇晶さんに、川上さんがどんなミーティングをするのかなどを聞いていた。『野球よりも人間教育に重きを置いている』と教わり、自分が監督になったときもそれを見習って『野球人である前に、一社会人である』ことを選手たちに説いていたんです」(スポーツ紙デスク)

野村さんがどれほど川上さんを崇めていたかを示すエピソードを橋上氏が教えてくれた。

「楽天監督時代の2007年、東京ドームで巨人と交流戦があったんですが、その日は巨人の通算5000勝を記念した『栄光のV9シリーズ』という企画でV9戦士が集結していた。長嶋さん、土井正三さん、末次利光さんら錚々たる顔ぶれが各ポジションについて始球式をやったりしたりしていたのですが、野村さんは興味を示すこともなく、どっしりベンチに座られていました。ところが、V9戦士の記念撮影が終わってプレーボールまで数分となったとき、川上さんが楽天ベンチに足を運んでくれたのですが、『挨拶に来たよ』と声をかけられた野村さんは、それまで見せたことのない反応をしたんです」

声の主を確認しようと顔を向けた野村さんは、それが川上さんであるとわかった瞬間、雷に打たれたかのようにバッと素早く立ち上がったという。

「目が点になりました。野村さんがあんなに俊敏に動くのを初めてみました(笑)。会話もものの1分ほどで『ノムさん、元気でやっているか?』『おかげさまで、まだユニフォームを着てやらせてもらっています』といった程度でしたが、聞いたことがないくらいハキハキとしゃべっていました。
 たとえば球団主催の激励会などに、中曽根康弘さんだったり、そのときの総理大臣に来ていただいたこともあって、それでも野村さんの立ち振る舞いが変わることはなかったんですが、川上さんだけは特別なんです。川上さんが『じゃあ、がんばれよ』と言って戻られると、野村さんがホッと息をついて座って、こう言ったんです。『橋上、俺にとってのスーパースターなんだよ。現役のときもそうだけど、監督としての川上哲治は俺の理想なんだ』と。野球少年・野村克也を垣間見た瞬間でした」

野村さんが巨人のような巨大戦力を手にしていたらどんな常勝軍団を作りあげたのか。川上さんの歴代2位の監督勝率.591に迫るようなことはあったのか。野村さんの夢は実現しなかったが、低迷するチームだけを引き受けて残した監督通算成績1565勝1563敗の価値は、それに引けを取るものではないのではないか。

1965年11月、戦後初めて三冠王となり喜ぶ野村克也(左、南海)。MVPの王貞治選手(巨人)。野村にとって、王の存在が発奮材料のひとつだった
  • 写真時事通信

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