「コロナでも生き方は変えないよ」73歳高田純次が明かす人生哲学

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『じゅん散歩』の収録で外苑前の緑道で風景画を描いているシーン

新型コロナウイルスの感染拡大が止まらず、撮影スタッフに人数を割くテレビ業界の仕事にも影響が出ている。そんな中、平日の午前中、『じゅん散歩』(テレビ朝日系)でこの男の姿はある。

高田純次、73歳。30歳で脱サラして演劇をきっかけにテレビ番組でブレイク。お笑い、CMタレントと活躍は多岐にわたるが、芸能活動40年以上、長い空白期間もなく走り続けてこられたのはなぜか。このほど行った電話インタビューで、普段の“テキトーキャラ”では決して明かすことのなかった、今もなお心に刻まれる若き日の挫折を口にした。

偶然転がってきた仕事が多かった

テレビ局が競うように、朝から新型コロナウイルス関連の情報を伝える日が続くが、なかなか希望の光が見えてこない。そんな中、高田純次が散歩をしながら街の人に明るく声を掛けるシーンを見ると、無意識に硬くなっている表情筋が一気に緩む。ある日の収録では、外国人夫婦を見つけた高田が夫人に、ジョークとも本気ともつかぬノリでこう尋ねた。

「アーユー、ドォーター?(娘さんですか?)」

その外国人夫婦は顔を見合わせて笑った。平日は毎日登場している高田も、今は新型コロナウイルスの猛威にみまわれ、収録がない日が続いているという。

「いったい、どうなっちゃんだろうね、ほんとに。どう気を付けていいかもわからないよね。体温は毎日、測ってますよ、今日は35度8分だったかな、36度台になかなかならない。低すぎて病気かぁ、オレ(笑)。でも、なんか悶々としちゃうよね。この仕事をやってこんなに時間があり、暇なことはないです。初めてです…。でも、これまでだっていいことばかりでもなかったし、仕事も偶然転がってきたもののほうが多い。だからこれからどうなるかは誰もわからないけど、何とかなるとも思ってます」

偶然転がってきたとはどういうことか。「じゅん散歩」は2006年に始まった地井武男による『ちい散歩』(6年)、2代目の加山雄三の『若大将のゆうゆう散歩』(3年)を受け継ぎ、昨年10月に5年目に突入した。

「はじまりはプロデューサーの方と近所のラーメン屋でお会いしてね。これも偶然なんです。その時にちょうど腰の手術をして1年たった頃だった。お医者さんからも歩きなさい、背筋も強くね、と言われていたので。歩くお仕事なら、ちょうどいいかぁーって始めたら、今はとことん酷使しちゃってまぁす(笑)」

そう笑う高田純次の73年間の人生は見かけほど、順風満帆ではなかった。人生最大のトラウマは大学受験の失敗だと今でも思う。現役、一浪とチャレンジしたがすべて不合格だった。

「70を超えた今でも、夢にみちゃうんだよね。受験に受かった夢と、10円が落ちていて、歩いたら次に100円があったという夢と。女の子といい感じになっていて、次の瞬間起きちゃう夢ね。大学については、どこかには入ると思っていた。キャンパスでアイビールック着てかわいい女の子とパァーとやってね。本を十字にして背中にかついでさ。楽しかったろうなぁ。夢だった……」

デザイナー学校を卒業後、アルバイト先で小劇場の芝居のポスターを描くことを頼まれた。さらに、人手が足りなかったのか、その先輩から「芝居に出てみないか」と頼まれて通行人の役で初めて舞台を踏んだ。その後、その先輩の誘いで劇団「自由劇場」の「マクベス」を観に行った。

「見たのは初めてだったけど、すごく感動したよ。すぐ目の前で俳優たちが熱演していて、汗もつばも客席に飛んでくる。人がこんなに懸命になれる世界があるのか、と圧倒されたんです。俺もこの熱気と震えるような感動を巻き起こしてみたいと思ったのを憶えているよ」

その後、自由劇場の研究生になり、チリ紙交換のアルバイトをしながら芝居の稽古を続けたが、観客の反応を思ったほど得られず、しだいに敗北感が忍び寄る。当時同棲していた夫人と籍を入れたため、生活を優先。芝居をやめて26歳で宝石の卸会社に就職した。金銭面ではラクになり、29歳の時に長女も誕生。新しい生活が軌道に乗り始めた、はずだった。

2週間とった長い夏休みに自由劇場のときに一緒だった柄本明、ベンガル、綾田俊樹らと遭遇。劇団『東京乾電池』を立ち上げていた彼らが、情熱的に演劇を語り合っている姿を見て、すっかり眠っていたはずの演劇への情熱が再び沸き上がり、サラリーマンをやめてしまった。30歳の秋だった。

「女房には泣きながら罵声を浴びせられたよ。『これからどうするの!』って。公演と稽古の合間に働くからって説得はしたんだけどね。他人から見ればあっちへ行ったり、こっちへ行ったりフラフラしていたと思う。でも人はいつもベストの道を選択できているわけではない。だから心に陰りや疑問が生じたりする。軌道修正するとき、自分が納得いくものかどうかが肝心。オレの場合はその道の才能がある、ないではなくて、自分の心が燃えるものをやれば納得できると思ったんだよ」

あの選手の結婚式司会の「ご指名」が来るまで

1985年4月にはじまった『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』の収録現場。後列右端の高田純次はレギュラー出演。隣に野口五郎、兵頭ゆきと並ぶ。前列右端から松方弘樹, ビートたけし, 木内みどり

33歳で「笑っていいとも」の前身、「笑っている場合ですよ」で「東京乾電池」のメンバーとともにレギュラー出演を果たす。同時期には「オレたちひょうきん族」にも出演していた。たけちゃんマンの敵役・「ブラックデビル」といえば明石家さんまだが、しかし初代はなんと…

「はい、オレがやらせてもらってました(笑)。2回ぐらいだったかな、たけちゃんマンとも対戦したよ。でもね、おたふく風邪になっちゃったんだよ。ぼこっと腫れてしまって、医者から『大きくなると精子もなくなっちゃう』といわれて、アハハハ。あの時は四苦八苦したね。ブラックデビルはさんまさんにかわってから人気が爆発したから、さんまさんの功績ですよ。

だからこれで、また仕事がなくなるかと思った。でもね、その時はさ、苦労をしているんて思わないじゃん。いずれ栄光がくるとわかっているなら、『よし今は苦労だ』とか思えるけど、当時はそうではなかった。だから売れる前とかは舞台の組み立てなど力仕事もたくさんやった。道路工事もやって生き埋めになったこともあるんだから(笑)」

挫折の繰り返しによって「オレの人生は決して自分の思うようにはならない」と高望みをしない覚悟のようなものが決まった。自分のないものを嘆いても仕方がない。だから今、自分がもっているもので目の前のことに精いっぱい勝負してきた。

その積み重ねで38歳で「天才・たけしの元気が出るテレビ」にレギュラー出演、40歳でグロンサンの「5時から男」のCMに起用される。44歳のときには意外な大役も任された。

「キングカズ(三浦知良)の結婚式で司会のご指名がきたんですよ。カズの奥さんの設楽りさ子さんと仕事で中国にロケに行ったときに、彼女のほうから『ぜひ司会をお願いしたい』といわれたんだ。カズの方は(故)逸見政孝さん。2人でやらせてもらいました」

ブレイクした後だけでも、バラエティー、お笑い、一流スポーツ選手の司会と活躍は多方面にわたる。ただ、すべてが思い通りにコトがすすんだわけではない。むしろ薄氷を踏む思いの連続だった。

デビューして間もない頃、高田が出演するコーナーがふるわず、プロデューサーが「全く受けないから切ろうかな」と思ったときに視聴率があがりはじめ、継続が決まったこともある。ただ、高田がどんな状況にあっても「いただいたチャンスは逃せない」と目の前の仕事にがむしゃらに打ち込み、その結果、仕事が仕事を呼んだ。だから高田はコロナによる苦境にも「前向きに捉られることはないか」と模索しているという。ただ唯一、悩みがあるとすれば……

「趣味がないんだよね、ほんとうに。だって時間ができても、やることが何もないんだよ。ただ、今回のコロナがね。どういう形で収束するというのは誰にもわからないじゃないですか。

まだ出張ができた頃のこと、マスク不足が騒がれていた時に、新幹線ホームの売店ではマスクが確実に売っていたんだよね。でもネットでそれが拡散しちゃったら、アッという間になくなっちゃって…なんだかなぁと思いましたよ。

平成から令和になって今年が2年目でしょ。きっと新しい時代がくるんじゃないかなという気がしているんだよね。これからだよね。俺なんか、この歳でまだ自分に何が天職かって、わからないんだよ。だから天職探しをしよう。そう思うと気持ちが熱くなるんじゃないかな。テンションがあがるものがあれば、それが天職なんだと思うものだから」

芝居のポスターを描く時代から、SNSの便利さによる功罪を身に染みて感じる現代まで生き抜いてきた。どんな境遇にあっても、決めるのは自分の心の持ち方次第。先が見通せない今でも、楽しめることを探しながら散歩を続ける高田純次が、それを教えてくれる気がする。

2012年1月、 映画「気休めの報酬」の公開記念イベントで、美女2人に囲まれる「気休め部長」の高田純次
  • 写真アフロ(2枚目)、時事通信(3枚目)

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