「洗濯係」だったサッカー元日本代表・岡野の人生を変えた事件 | FRIDAYデジタル

「洗濯係」だったサッカー元日本代表・岡野の人生を変えた事件

あの武井壮も驚いた衝撃事実とは……

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1997年11月16日、初のW杯出場を決めたイラン戦で決勝ゴールを決めた岡野雅行
1997年11月16日、初のW杯出場を決めたイラン戦で決勝ゴールを決めた岡野雅行

ワールドカップ(W杯)は6大会連続出場、アジアで勝つことは当たり前になったサッカー日本代表。だが、1993年の「ドーハの悲劇」に代表されるように、あと一歩でW杯切符がスルリと落ちる涙ぐましい時代もあった。

その「負」の歴史が変わったのが1997年11月16日、「ジョホールバルの歓喜」と称されるイラン代表戦。決勝Vゴールを決めたのが当時、浦和レッズで活躍していた岡野雅行だった。現在はJ3ガイナーレ鳥取の代表取締役GMをつとめる「野人」はかつて、サッカー部が存在しない高校に部を創設するところからはじめたという。たたき上げからスターダムにのしあがった岡野の人生を振り返る。

高校にはサッカー部がなかった

その瞬間、長髪をなびかせ、快足を飛ばした男は、絶叫しながら仲間の歓喜の渦に消えた。4年に1度、サッカーのW杯が近づいてくると一度は目にする映像だ。W杯初出場に導いた『野人』といえばその顔を思い出すだろう。当時、Jリーグが開幕してまだ4年目。当時のサッカーバブルを最高潮にのしあげた岡野自身の人生は、転ぶ方向を一歩変われば全く別の人生が待つ、綱渡りのような人生だった。

「人生って本当、わからないですよね。僕は入学時にサッカー部がなかった高校に通い、大学でも最初は選手ではなく、洗濯係でした。そこから日本代表まで来ているんです。高校(現立正大淞南高)に入ったら、自分で学校の理事長に直談判してサッカー部を作りました。部員2人からスタートして島根県でベスト4までいったんですよ」

卒業後に進学した日大のサッカー部は当時2部だったが、特待生や推薦でなければ入部は許されなかった。

「『テスト生募集』という張り紙がありました。受けに入ったら60人くらいかなぁ、希望者がいて……。自分は島根の無名校だから絶対受からないなぁ、こりゃダメだと思っていましたね」

しかしゲーム形式のテストで岡野は4ゴールを奪った。岡野が続ける。

「合格者2人のうち、ひとりが僕でした。でもその時にサッカー部の先輩から『洗濯係かマネジャーのどっちがいい?』と聞かれて、マネジャーならきっとサッカーはできなくなる…と思って、迷わず洗濯係を選びましたね。でも1年生のときは本当に、洗濯係オンリーでした(笑)」

普通であれば、控え暮らしで4年間が過ぎ去ってしまう。しかし岡野は意外なところでチャンスを引き寄せた。

「体育学科の授業で100㍍走のタイムトライアルがあったんです。現役バリバリの陸上部の人に、『君、サッカー部だろ? 足が速いだろうから一緒に走ってくれない?』と誘われました。陸上部の人はスパイクで自分はバッシュ(バスケットボール用のシューズ)しか用意してなかったんです。でも陸上部の彼に勝ってしまって……タイムは10秒7だったかなぁ。俺って足が速いんだって大学に行ってから気づいたんです」

この場を証言する目撃者がいる。大学時代、陸上競技の十種競技で日本チャンピオンになったタレント武井壮である。当時神戸学院大陸上部にいながら、強豪・日大の練習に参加していた武井が、陸上部を圧倒する〝バッシュの岡野〟に「あの足が速さは…いったい何者だ」ととてつもなく驚いたそうだ。

日大時代の岡野雅行(本人提供)
日大時代の岡野雅行(本人提供)

「翌日の試合を忘れて犯した大きな”ミス”」

学内に噂が広まると、2年生にあがったときに大学から呼び出された。

「何か悪さでもしたかな、とドキドキしながら行くと、『岡野君、君を特待生にします』と言われて……自分自身はキョトン、でしたよ」

当然、サッカー部でも大学でもほっておくわけがない。2年生にあがって本格的に練習に合流できるようになると、俊足を生かしたプレースタイルで頭角をあらわしはじめた。

そして大学3年時に運命の試合が待っていた。天皇杯1回戦。相手は当時大学NO・1だった筑波大。藤田俊哉(現日本サッカー協会強化部)、大岩剛(前J1鹿島監督)、望月重良(J3 SC相模原代表)など、『日本代表予備軍』で編成され、集まったJリーグのスカウト陣も筑波大の選手のチェックにやってきた。

岡野は一泡吹かせてやろう、と野心に燃えているのかと思ったら、そうではなかった。「この試合前に大きなミスをしてしまったんです」と苦笑いしながら振り返る。

「試合があるのを完璧にわすれて(当日の)朝5時まで友人と飲んでいました。ひどい二日酔いで試合に出ることになりまして……。でも後半残り10分あるかないかの時間帯に、筑波のCKで自陣のペナルティエリアまで戻り、GKが弾いたボールを僕が拾ったんです。もう次の瞬間は本能でしたね。1人、2人、3人4人(笑)、最後5人目はGKを振り切ってゴールを決めたんです」

まるでサッカー界伝説のマラドーナの5人抜き。それを当時無名の大学生だった岡野がいとも簡単にやってのけた。

「でもマラドーナよりも同じアルゼンチン代表のカニーヒャが大好きだったんで、現役時代、長髪にこだわったのはカニーヒャへのあこがれからです」

試合はそのまま日大が勝利。当時大学最強だった筑波大が2部リーグの日大に負けたことは多くのスポーツニュースでもとりあげられた。

その試合を境に、一気に風がかわった。筑波大戦を観ていたJリーグの6クラブのスカウトが岡野のもとにきた。そのうち浦和レッズだけが「大学をやめてでも来てほしい」と誘ってきた。その熱意に動かされた岡野は大学3年で中退し、浦和へ入団する。当時、まだ「野人」のあだ名はついていなかった。

「経歴とか肩書とか、僕はあまり関係ないと思っています。やる前から勝つか、負けるかなんてわからない。決めつけてはいけないんです。そのかわり、中途半端なことはイヤだったから、それだけはしてこなかったと思います」

もし高校時代、理事長に直接、サッカー部創設を訴えていなかったら、もし大学の授業で「どうせ負ける」と考えて全力で走っていなかったら、今の岡野の人生はきっとなかった。

  • 写真岡沢克郎/アフロ(代表戦)

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