メジャーで活躍!でも期待外れも…プロ野球「大物外国人選手」列伝 | FRIDAYデジタル

メジャーで活躍!でも期待外れも…プロ野球「大物外国人選手」列伝

ジョンソン、クロマティ、グリーンウェルからアダム・ジョーンズまで、日本球界を彩った「大物外国人選手」あれこれ!

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今季からオリックスに加入したアダム・ジョーンズはオリオールズなどでメジャー通算282本塁打を放った超大物
今季からオリックスに加入したアダム・ジョーンズはオリオールズなどでメジャー通算282本塁打を放った超大物

NPBには毎年多くの外国人選手がやってくる。日本でプレーした外国人選手はすでに1000人を超えている。中にはMLBでも実績を残した大物選手もいるが、そうした大物が日本ですべて大活躍するわけではない。これが野球の面白いところだ。

70年ほど前まで、NPBとMLBの実力差は非常に大きかった。1949年来日したサンフランシスコ・シールズはメジャーではなくマイナーチームだったが、日本代表などに6戦全勝と圧勝した。1953年毎日に入団したレオ・カイリーは横須賀基地所属の米軍兵士で、レッドソックスで1シーズンだけ投げた駆け出しのメジャーリーガーだった。アルバイトで日本のプロ野球でプレーしたが、投げては6試合6勝、防御率1.80、打っては19打数10安打。日本のプロ野球を子ども扱いした。

1962年、中日に大物外国人選手が2人も入団した。ジャッキー・ロビンソンに次ぐ2人目の黒人大リーガーとなった外野手のラリー・ドビーと、MLB通算149勝投手のドン・ニューカムだ。超大物2人の来日に当時の大リーグファンは驚いたが、実はドビーは引退して3年目、ニューカムも2年目だった。39歳のドビーは10本塁打35打点、打率.225、40歳のニューカムは投手としては1試合に登板しただけ、打者として12本塁打43打点、打率.262だった。ドビーは1998年にアメリカ野球殿堂入り。来日外国人としては唯一の記録だ。

ディック・スチュアートは1963年レッドソックス時代に打点王。しかし一塁守備のまずさで有名で「奴の指は全部親指だ」など酷評され、打球の処理をするだけで拍手が起こった。1967年に大洋に入団し33本塁打。しかし一塁守備はリーグ最多の19失策。2年で退団した。

70年代に入ると、大物選手が続々来日する。

1965年カブス時代にMVPをとったゾイロ・ベルサイエスは1972年に広島でプレー。広島にとって実質的に初めての外国人選手で大いに期待されたが、4本塁打10打点、打率.189に終わり、ファンをがっかりさせた。

大洋は優秀な外国人選手を獲得するチームだが、1972年にはヤンキース、ブレーブスの正三塁手だったクリート・ボイヤーを獲得。華麗な守備で日本でも活躍し、MLBでゴールドグラブ、NPBでダイヤモンドグラブを獲得した最初の選手となった。人格も素晴らしく、引退後は大洋のコーチも務めた。

そのボイヤーのヤンキース時代のチームメイトで、一時は「ミッキー・マントルの後継者」とまで言われたジョー・ペピトーンは1973年にヤクルトに入団。しかしアメリカ時代から素行の悪さで有名で、わずか14試合で退団。帰国してから日本野球についてこきおろすなど、悪評をまき散らした。

1974年には、ワシントン・セネタースで2度本塁打王になったフランク・ハワードが太平洋に入団。2m115㎏の巨体。前評判は素晴らしく漫画「あぶさん」では、景浦安武とホームランの競演をするシーンが描かれたが、実際には開幕戦でひざを痛めて途中退場。そのまま退団した。成績は1試合2打数0安打だった。

長嶋茂雄が引退した巨人は、1975年、73年にブレーブスで二塁手として当時のMLB最多本塁打である43本を記録したデービー・ジョンソンを獲得。大いに期待されたが、1年目は日本投手に適応できず13本塁打38打点、打率.197に終わる。史上初の巨人最下位の元凶の一人とされ「ジョン損」と酷評された。

1976年、巨人に入団したクライド・ライトはMLB通算100勝、1970年には22勝した大物投手。巨人でもローテーションを維持し、77年には11勝したが、審判や選手との喧嘩が絶えず、ユニフォームを引きちぎったりしたため「クレージーライト」と言われた。

1977年に中日に入団したウィリー・デービスは来日時点でメジャー通算2547安打と抜群の成績。中日では5月14日の巨人戦で「ランニング満塁本塁打」を記録し、ファンの度肝を抜いた。しかし首脳陣とのトラブルが絶えず、翌年はクラウンに。しかしここでもトラブルが絶えず2年で退団した。

期待を裏切る大物外国人が続出したこともあり、この時期には「害人」という言葉が広まるようになった。一方でメジャー経験のないロベルト・マルカーノ(阪急)などが大活躍したこともあり、MLBでの実績は当てにならないという見方も定着した。

そんな中で「さすが」というプレーを見せたのが、巨人のロイ・ホワイトとレジー・スミスだ。

1980年に来日したホワイトはヤンキースで中軸打者として活躍。オールスターにも2度出場。巨人でも主軸打者として活躍。ヤンキース、巨人両方で4番を務めた。気品ある振る舞いでも日本選手の手本となった。

1983年入団のレジー・スミスはレッドソックス、ドジャースなどで2020安打、314本塁打。巨人でも中軸を打ち83年に28本塁打。勝負強さで貢献した。

1984年に巨人に入団したウォーレン・クロマティは少し特殊なケース。エキスポズでは3割をマークするなど10年で1104安打。一線で活躍していたが、FAとなってMLB球団ではなく巨人を選んだ。31歳の働き盛り。巨人では.350以上を2回記録するなど「史上最高の外国人選手」と言われる活躍をした。
多くの大物選手は力が落ちて来日する。これはレアなケースだといえよう。

平成になってからは、NPB球団もMLBの事情を十分に把握できるようになったが、それでも「外れ」大物外国人は散見された。

1997年 阪神に入団したマイク・グリーンウェルはレッドソックス時代、オールスター2度出場のスター選手。これも鳴り物入りだったがわずか7試合で5月に退団し、そのまま引退。阪神ファンはグリーンウェルだけでなく、高額年俸で契約した球団にも罵声を浴びせた。

2012年にソフトバンクに入団したブラッド・ペニーは来日時点でMLB通算119勝、2006年には最多勝という大物だったが、キャンプから全くの不振。肩の故障を訴え、1試合0勝1敗で退団した。帰国後「楽しくなかった」などと語り顰蹙を買った。

一方で、存在感を示したのが2013年のアンドリュー・ジョーンズだ。ブレーブス時代は、チッパー・ジョーンズと「Wジョーンズ」でチームを引っ張ったスター選手。本塁打王、打点王1回。通算434本塁打。外野手としても抜群で、ゴールドグラブ10回受賞。楽天ではDHに徹したが、1年目は26本塁打94打点。105もの四球を選び楽天の初優勝に貢献した。

今季もオリックスにMLB通算282本塁打、オールスター出場5回の大物、アダム・ジョーンズが入団している。春季キャンプでは守備でも打撃でも貫禄を見せた。

新型コロナ禍の中、アダム・ジョーンズは帰国せず日本でトレーニングを続けている。彼は「当たり」だろうか?「外れ」だろうか?

  • 広尾 晃(ひろおこう)

    1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライターやプランナー、ライターとして活動。日米の野球記録を取り上げるブログ「野球の記録で話したい」を執筆している。著書に『野球崩壊 深刻化する「野球離れ」を食い止めろ!』『巨人軍の巨人 馬場正平』(ともにイーストプレス)、『球数制限 野球の未来が危ない!』(ビジネス社)など。Number Webでコラム「酒の肴に野球の記録」を執筆、東洋経済オンライン等で執筆活動を展開している。

  • 写真ロイター/アフロ

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