「ミスターラグビー」平尾誠二より人望を集めた男が追う新しい夢

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1981年1月7日、全国高校ラグビー大会初優勝を果たした伏見工業の選手たち。平尾誠二氏(左端)と一緒に、高崎利明氏(左から4人目)は背番号9で先発していた(時事通信)

選手、監督の両方で花園制覇を経験

「先生、ちゃんとつなぎましたよ」

高崎利明は独りごちる。日焼けした丸い顔。目じりは下がる。

先生とは山口良治。「泣き虫先生」として知られ、伏見工のラグビー部を全国優勝4回の強豪とならしめた始祖である。

高崎はその教え子。この3月まで、伏見工が統合された京都工学院の副校長だった。4月、校長として伏見工に転出した。昇進して帰る母校は、府内で唯一の定時制工業校である。

学校間をまたぎ、ラグビー部のGMは続けるが、指導は監督の大島淳史に託した。山口から受けたバトンを次に手渡す。

「今の立ち位置で大島を支えて行けることができればいいと思うよ。チームにとって必要な新陳代謝やな」

高崎は同級生の平尾誠二とともに、山口の指導の下、伏見工で初の全国制覇をする。60回大会(1980年度)の決勝は大阪工大高(現・常翔学園)に7-3。平尾は同大から神戸製鋼に進み、選手や監督として日本代表も支える。

日体大に入学した高崎はスクラムハーフとして正選手になる。3年時の大学選手権(20回)では決勝で平尾と激突。7-31と準優勝。平尾に一歩及ばなかった。大学では保健・体育の教員免許を取り、故郷に戻った。

「教員になったのは山口先生の影響が大きい。教え子はみんなそやと思うよ」

京都市の教員になり、最初の8年間は中学を教えた。やんちゃな子供たちが良化する姿を見るのは楽しかった。

「別にラグビーの指導者になりたかった訳やない。教師になりたかった。サッカー部の顧問をやっていたくらいやから」

しかし、人生は分からない。1993年の早春、自宅の電話がいきなり鳴る。

「おはよう、トシ。4月から伏見工の勤務になる。よろしく」

山口は用件だけで電話を切る。耳には「プー、プー」という切断音だけが残った。

「忘れもせんよ。3月12日の朝7時やった。経験上、早朝と深夜の電話がややこしいのは分かってたんやけどな」

電話の2か月近く前、伏見工は72回全国大会で2度目の優勝を果たした。市からご褒美を問われた山口は、そのひとつに「後継者」を挙げた。

「坪井らの学年の神がかり的な勝ち方がなかったら、いまここにおれへんやろな」

8強戦では流経大柏を19-18、4強戦では日川を22-20。ともに1点、2点差の辛勝だった。決勝は15-10で啓光学園(現・常翔啓光)を破った。

主将だった坪井一剛は同大、NTT関西(NTTドコモの前身で)プレーを続ける。今はラグビー部が立ち上げたNPO法人「京都伏見クラブ」の前代表として、ラグビー指導などに携わっている。

高崎は母校でコーチになり、5年後、監督になった。市のスポーツ政策監に就いた山口に代わる。そして、80、85回全国大会で2度の優勝を果たす。恩師の数に並んだ。高校日本代表の監督も経験する。

「自分の中では、ラグビーをやり切った、という気持ちがある。今はチームのV5を願っている。山口先生の元気なうちに達成してもらえたらうれしいなあ」

監督として初の頂点は80回大会(2000年度)。主将はフランカーの大島。37歳になった教え子のため、コーチの2枠を学校や市に要望し、実現化の方向にある。高崎自身と昨年、市の体育健康教育室に転出した2代前の監督である松林拓の分である。

仲間や教え子を輝かせてきた

高崎はこの4月で58歳になった。定年まで3年を残す。

「その段階で、またやりがいのある仕事を持ってきてもらえた」

最後の赴任が、母校である伏見工であり、それを統合してできる京都奏和(きょうとそうわ)の初代校長である。

「自分の原点である教育者に戻れる。ラグビーの指導者やないんやな。指導者ということなら抵抗していた。自分のやりたかった教育の部分ができるんや」

市立高校を統括する学校指導課の課長が例外的に来校。通常の人事にも関わらず説明をしてくれる。その時には京都工学院の校長になる選択肢もあった。

「そんなん、おもしろないやん。工学院はもう学校として出来上がっている。それに、校長になったらラグビーを特別扱いする訳にはいかんやろ」

伏見工はこの4月、最後の入学生を迎え入れた。3年後には、来年4月に開校する京都奏和に統合される。

「伏見工を閉じる役目やな。ラグビーはないけど、高校生と教員でお世話になった」

高崎は現在、京都奏和の開設準備室の室長もつとめる。9月には肩書が校長に変わる。新校舎は伏見工の敷地内。工事が進められている。京阪電車の伏見稲荷駅から徒歩5分と利便性の良さは続く。

学校紹介のパンフレットには、どのような生徒が学ぶ学校か、という説明がある。

<基礎・基本から学び直したい生徒や、学びにくさや人間関係・学校生活に不安を感じている生徒、不登校経験のある生徒など、様々な困りがありながらも『高校に登校して学びたい』と思う生徒に学んでほしいと考えています>

高崎自身が脳性まひの次男を持つため、子供への受容力、愛情の深さ、心配りなどこの新校の長に向いている。

新校は商業校を出発点とする西京(さいきょう)の定時制と統合され、定時制と単位制を包括した普通科となる。伏見の工業系、西京の商業系の授業も残す。

通学圏は府内全域であり、1学年は80人編成。生徒は3年制か4年制のどちらかを選択でき、昼間、夜間における4部制を敷く。1部は午前11時、4部は午後4時10分の始業。周囲の関心度は高い。

「学校説明会には保護者と子供が合わせて600人くらい来てくれたよ」

室長と校長の兼職中は、朝9時から夜は10時ごろまで在校する。今は新型コロナウイルス感染拡大で休校措置が取られているため、7時に業務は終わる。それでも、京都工学院のラグビー部GMとしての時間捻出はなかなか難しい。高崎は笑う。

「自分の体力次第やな」

京都でも5月21日、非常事態宣言が解除された。早ければ今月中にも学校は再開される。高崎が教育者として腕を振るう時期はすぐそこに来ている。

伏見工2年の冬、新チームの主将を決める投票を3年がした。得票が一番多かったのは平尾ではなく、高崎だった。しかし、山口は監督権限で平尾を主将に据えた。

「よかったと思うよ。それで」

スクラムハーフとしてもハーフ団としてスタンドオフの平尾を盛り立て、優勝主将に押し上げた。そこから「ミスター・ラグビー」の人生は開けて行った。

サポートするのはお手のもの。次は新旧2つの学校の長として、生徒たちを実りある人生に導いていく。

 

◆高崎利明(たかさき・としあき)

1962年(昭和37)4月25日生まれ。58歳。京都府出身。修学院中でラグビーを始め、伏見工(現・京都工学院)では高3時に60回全国大会(1980年度)で優勝する。日体大卒業後に京都市の保健・体育教員になる。8年間の中学勤務の後、母校に赴任。1998年、山口良治の後を受け、監督に就任。80、85回全国大会で優勝する。洛陽工と統合された京都工学院では副校長とラグビー部GM。2020年4月、伏見工(定時制)の校長に転出する。家族は夫人と2子。現役時代は170センチ、65キロ。

  • 取材・文・写真鎮勝也

    (しずめかつや)1966年(昭和41)年生まれ。大阪府吹田市出身。スポーツライター。大阪府立摂津高校、立命館大学産業社会学部を卒業。デイリースポーツ、スポーツニッポン新聞社で整理、取材記者を経験する。スポーツ紙記者時代は主にアマ、プロ野球とラグビーを担当

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