西城秀樹死去から2年 八代亜紀、コロッケらが語る「素顔」
急性心不全でこの世を去ったアイドル界の革命児 その秘話とは
「ヒデキの『YOUNG MAN』と私の『舟唄』が賞レースを争っていた’79年あたりは毎日のように、生放送で彼と顔を合わせていました。当時、タレント同士が外で会うことはタブーでしたから、よく家に帰ってから電話で話しましたね。唯一、本音を語り合えるような仲でした。彼のリハビリ中にも何度か仕事で一緒になりましたが、後ろ姿は若い頃と何も変わらなかった。思い出すと切ないですね」
歌手の八代亜紀(69)は懐かしそうにそう振り返る。
’18年5月16日に西城秀樹(享年63)が急性心不全で亡くなってから、早2年が経過した。三回忌を迎えた今、本誌は西城と親交のあった人々に、改めて彼の人柄や素顔について語ってもらった。
小学生時代から音楽に夢中だったという西城は、高校1年生になると父親の反対を振り切って上京する。この頃は歌い方一つとってもままならなかったという。西城を35年間支えたマネージャーの片方(かたがた)秀幸氏はこう語る。
「彼の歌唱力は努力の賜物(たまもの)です。上京直後は、基礎的なボイストレーニングや体力作りに専念。ようやく歌い方が確立されてきたのは、5枚目のシングル『情熱の嵐』のあたりから。洋楽風の曲調に日本語の歌詞を上手く乗せて届ける彼ならではの歌唱スタイルは、多くの若手ロッカーに影響を与えました」
スター街道を上り始めた西城は、『傷だらけのローラ』『YOUNG MAN』などヒット曲を連発。スーパーアイドルとして名を馳(は)せたものの、素顔は「隣のヤンチャなお兄さん」のようだったという。西城を慕うタレントのコロッケ(60)は、彼との思い出をこう懐かしむ。
「知人の紹介で初めてお会いしたとき、ヒデキさんは『コロッケ、メシ食いに行こう』と言って新宿の『餃子の王将』に連れて行ってくれました。そこで、ビールと餃子を頼みながら『芸能界でやっていくなら、売れても絶対に勘違いしちゃダメだよ』と教えてくれたんです。
私のショーパブへ遊びに来てくれたこともありました。当時、私はヒデキさんの声マネができませんでした。するとヒデキさんは、『俺のモノマネはこうやってやるんだよ』と言ってほかのお客さんもいる前でマイクを握り、一曲歌ってくれたんです。しかも私の芸風に合わせて歌詞の合間に『アッ』とか『オッ』とか入れて。気取らない、気さくな人でした」
私生活では’01年にOLだった美紀さんと結婚し、3人の子供にも恵まれた。
しかし、そんな西城を病魔が襲う。’03年、脳梗塞に倒れたのだ。懸命なリハビリで何とか復活を果たすも、8年後の’11年、再び彼を襲った脳梗塞は、前回とは比べものにならないほど重かった。
「もうイヤだ」「無理だって……」
’16年、西城のリハビリに密着した際に本誌が見たのは、弱音を吐いたことのない西城が呻(うめ)くように音を上げる姿だった。だが、彼は諦(あきら)めなかった。「復帰してステージで『YOUNG MAN』を披露する」という目標のためにリハビリを続け、その夢を現実にしたのだ。
「『YOUNG MAN』を披露できただけでも奇跡的なことです。でも、彼はさらにその先へ行こうとした。最後の数年は、激しい振り付けで有名な『傷だらけのローラ』を踊るためにリハビリに取り組んでいました」(前出・片方氏)
その目標が叶うことはついになかったが、彼は自宅で倒れたその日まで、厳しいトレーニングに励んでいたという。
「一生青春」。西城は自身の座右の銘の通り、最期まで夢見ることを忘れなかった。
『FRIDAY』2020年6月5日号より
- 撮影:菊地弘一 小松寛之 蓮尾真司