初のサッカーW杯に導いた岡野雅行「雑草魂の根源」 | FRIDAYデジタル

初のサッカーW杯に導いた岡野雅行「雑草魂の根源」

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1997年11月16日、 サッカーW杯アジア予選・イラン代表戦で決勝ゴールを決めた岡野雅行。W杯初出場に導き、それまでの不遇の歴史を変えた(時事通信)
1997年11月16日、 サッカーW杯アジア予選・イラン代表戦で決勝ゴールを決めた岡野雅行。W杯初出場に導き、それまでの不遇の歴史を変えた(時事通信)

新型コロナウイルスの感染拡大により、中断していたサッカーJリーグの日程が15日に発表され、「国内でサッカーが見られる」日常が近づいてきた。J3鳥取の代表取締役GMとしてリーグ再開戦となる27日のC大阪U-23戦を待つ岡野雅行はかつて、1997年11月に日本代表をワールドカップ(W杯)に初めて導く決勝Vゴールを決め、サッカー界の「負の歴史」を転換させた。

新型コロナによる外出自粛でサッカーのみならず、さまざまな経済活動がストップ。「100年に1度の転換期」とも言われる今、苦しかったサッカー界の歴史に希望の光を灯した男の歩みを振り返る。

歴史を変えた男も「我慢」と戦った

「この中断期間中は心配しかなかった。今年中に本当にサッカーができるようになるかなっていう……。練習が思うようにできない選手のことも気になっていたし、クラブを支えてくださる企業さんも今だけでなく、来年、再来年以降どうなるんだろう、と。かといって僕が何か具体的に動けるか、といったらそれはできない。我慢の日々でしたね」

プロサッカークラブの経営者である岡野は厳しい現実を受け入れつつも、ピンチをチャンスに変えるべく、明るい表情でこう続けた。

「再開になったらもう、『みんなで取り返そうぜ』ぐらいの気持ちは持っています。僕の現役時代の経験からも感じるんですが、選手はやはり、ファンやサポーターの方がいるから頑張れる。サポーターの方にとっても、新型コロナに伴う外出自粛によって、スポーツ、イベント、コンサートなどが見られなくなった。改めて『こんなにすばらしいものだったんだね!』と感じてもらっていれば、逆に取り返す力に変えられると思うんです」

そう考えられるのは、無名選手からスターダムに這い上がった現役時代の歩みと決して無縁ではないだろう。

「高校入学当初はサッカー部がなくて、日大入学当初は洗濯係です。大学2年時に活躍した試合をたまたま見てもらってプロ入りしたんですけど、入った時は高校時代の友達から『お前なんかどうせすぐクビになるから、お金だけ貯めとけ。ダメだったら(溜めたお金で)お店やろうぜ』と言われていたほど。

でもそんな僕が日本代表になれたんで……。やる前から勝つか、負けるかを自分で決めつけてはいけない。どうにかなるさ、ってまずは飛び込んでみる。そのかわり中途半端なことはしてこなかったという思いはあります」

そうは言っても、岡野にとってプロの壁は厚かった。Jリーグが発足した1993年は最下位だった浦和レッズは、岡野が入団した1994年も開幕5連敗でスタート、チームを指揮していたのは代表監督のキャリアもある横山謙三監督だったが、岡野のスピードにあわせた戦術はあえてとりいれなかった。ルーキーイヤーから35試合出場こそしたが、わずか3ゴールがその証である。「周りの選手は本当にうまい人ばっかりで…」と普通なら落ち込むところなのだが…

「当時は有名になりたいって思っていました。いつかFRIDAYに写真をとられたい……。それがモチベーションでした。これ、冗談ではないですよ。だって、有名で人気がなきゃ、メディアの方だって追いかけないでしょ? だから、いつかはと、虎視眈々と思っていたんです(笑)」

岡野がプロ入りした1994年当時は、Jリーグバブル全盛期だった。強くて人気も一番だったヴェルディ川崎(現J2東京ヴェルディ)にはカズ(横浜FC)やラモス瑠偉氏がいた。道を歩けば誰もが振り返る、正真正銘のトップスターだった。報道陣にも近寄りがたいオーラをふりまいていた彼らスター選手と、岡野は明らかに違っていた。

「非公開練習とか続いてネタがなくなると、いつも記者さんが僕のところに来てました。『岡野くん、なにか面白い話はない?』って。そこで大学時代に犬に追っかけられて抜かされなかったって話をしましたら、翌日のスポーツ紙に1面ぐらいの大きな見出しで〝野人岡野、犬に勝つ〟と。スーツを買った、と話せば“野人スーツを買う”って。

俺、サッカー選手なのになぁと思っていましたけど、メジャーになるため、と思っていたし、報道してくれるのはホントありがたかったです」

“犬に勝つ”ほど足が速くても、それだけでは当時のJリーガーでは天下をとるまでにはいたらなかった。ただ、その1点の長所を「武器」と捉えた人がいた。当時、サッカー日本代表監督だった加茂周氏である。「あの速さは天才DFでも止められへん、よう見ときぃ」。そして1995年1月、当時、ほぼ無名の岡野を日本代表へ初招集した。岡野が振り返る。

「確か、銀座で親戚とランチをしていました。クラブの人から電話があって、驚くなよ、お前が日本代表に呼ばれた。(当時エースFWで)目標としている福田(正博)さんと一緒だぞ、と言われました。記者会見をするまで絶対誰にも言うなよと、口止めされたのがいい思い出ですね」

日大サッカー部の洗濯係からわずか3年で日本代表入り。岡野にとって大きな飛躍の時になった。代表初招集をきっかけにプロ3年目の1996年は浦和でキャリアハイとなる、公式戦46試合出場し15ゴール。浦和でPKも任されるエースFWになった。

1997年9月26日号のFRIDAY。川口能活の近くに岡野雅行がいたという
1997年9月26日号のFRIDAY。川口能活の近くに岡野雅行がいたという

FRIDAYに”カット”されたことで発奮

「いい気になっていましたね。サッカーが楽しくてしかたなかったです。夜もよく飲みに行きました(苦笑)」

プロ4年目となった1997年。日本サッカー界は日本代表が初のW杯出場目指すアジア予選の戦いぶりに、国民的行事といってもいいほどの盛り上がりをみせていた。岡野も代表の主力ではなかったが、常連組の一人になっていた。独身だった岡野は、同じ独身選手たちと公私をともにすることが多かった。

「その頃でしたね、独身だった(GK川口)能活と食事にいきました。彼は1996年アトランタ五輪でブラジルを破る『マイアミの奇跡』のメンバーで、飛ぶ鳥を落とす勢いでしたから、僕と違った人気がありました(笑)。そこでです、FRIDAYさんに撮られたのは。でもいざ発売された雑誌をみて驚きましたね。能活だけが大写しで、僕はカット、カットですよ、隣にいたのに(笑)」

岡野が掲載されていたはずの1997年9月26日号を振り返ると、「スクープ撮 この元気でW杯へ “守護神”川口能活は夜も『スーパープレイ』だッ」という3ページの特集記事。夜の街に繰り出していた川口だけが写されていた。のちに岡野はその取材現場に来ていた記者と別の取材機会にばったりと会い、話をしたという。「どうして僕はカットされたのですか」と聞くと、こんな答えが返ってきたという。

「この話は川口能活さんだからネタになるし、記事になったんです。岡野さんだとキャラ的に当たり前かな、と」

ここで終わらないのが野人・岡野だ。こう振り返る。

「じゃあ、どうやったら出してくれるんですかと聞いたら、『女優さんと付き合ってください。“美女と野人”で出しますから』って言われまして……。じゃあ、頑張ります、っと言って別れたんですよ』

FRIDAYに“フラれた”サッカー選手。岡野がきっとはじめてだろう。「いつかはFRIDAYに撮られて、有名になってやる!」と意気込んでいた岡野が初めて掲載されたのは、1997年12月5日号。日本代表が初めてW杯切符を手にするVゴールを決めた直後だった。雄たけびをあげながら走る岡野が表紙を飾り、さらに日本代表の特集が6頁組まれた。女優とデートをしなくても、堂々と本業のサッカーでFRIDAYにフラれたリベンジを果たしたのである。

 

岡野雅行が初めて掲載された『FRIDAY』1997年12月5日号
岡野雅行が初めて掲載された『FRIDAY』1997年12月5日号

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