【戦争秘話】75年前、敗戦の瞬間を生きていた人の「実際の姿」
マンガ『風太郎不戦日記』試し読み
昭和の大作家・山田風太郎が見た戦争
現在、『モーニング』誌で連載中の『風太郎不戦日記』というマンガをご存じでしょうか?
原作は、山田風太郎。後に『甲賀忍法帖』などで大ベストセラー作家となる彼は、日記を綴った昭和20年には、東京医学専門学校(現在の東京医科大学)に通う一介の医学生でした。
昭和20年は、いうまでもなく太平洋戦争最末期。そんなときに20歳すぎの学生が戦地にも行かず、学校に通っていることは少し不思議に思えます。
じつは山田青年は、徴兵検査で「丙種(へいしゅ)合格」と判定されていました。合格とはいいながら、甲種(身体健康)・乙種(甲種に続く合格)とは違って「現役に適さない」という分類で、入隊検査後には家に帰されてしまう、当時の感覚としては、はなはだ不名誉な結果です。
判定の原因は結核感染の疑いがある肋膜炎(ろくまくえん)でした。戦前、戦中の日本では死亡原因第一位が結核であり、空気感染するこの病気が軍隊内で蔓延しては一大事。特効薬のストレプトマイシンが開発されたのは終戦後ですので、結核感染者は軍隊で何よりも忌避されていたのです。
帰宅後、軍需工場での労働に動員された山田青年は、その後、家業であった医の道に進むべく、東京医学専門学校に進みます。
皮肉なことに、軍隊で最も必要とされる専門的職業が医者でした。軍医はいくらいても足らなかったため、医学生は徴兵免除されていたのです。医学生は一刻も早く医学を修め、軍医になるべし――戦争があと2年続いていたら、山田青年は軍医として、結局どこかの戦地に送られていたことでしょう。
ですので、『戦中派不戦日記』という原作本のタイトルにある“不戦”は、“反戦”ではありません。戦地に行っていない自分に対して、どこか悲嘆をこめつつ斜に構えて見た記録なのです。
東京郊外の目黒に住んで、新宿に通学していた山田青年の日記には、戦中の暮らしぶりが赤裸々に綴られています。銭湯の汚さ、配給の物資が次第に減っていくこと、闇市での物資調達、すし詰めの電車……。
実際のところは、どうだったのでしょう?
もはや少数派になりましたが、世の中には山田風太郎と同じように、あの時代を生き抜いた世代も存命しています。実を言うと我が家にも、東京の下町・日本橋生まれという戦中派の母がいます。
そこで、母に『風太郎不戦日記』を読んで貰いました。
「マンガだから、ずいぶん綺麗ねぇ」
母の第一声は、これでした。
「銭湯の汚なさったら、今だったら想像もつかないぐらいだわよ。女湯だって、もう本当にひどいもんだった。ある日には、湯の上に大便が浮いててねぇ」
……どうしたの、それ?
「手ですくって、外にポイッて放り投げた」
もちろんプリプリ怒りながらも、そのまま湯に浸かり続けたそうです。作中にあるように、銭湯に普通の履き物など履いていったら、絶対に盗まれるのは常識だった、とか。
「シラミっていうのは、服の縫い目に沿ってたかるんで、けっこう見えない。一度、自分の服に入りこんでるシラミを全部むしって牛乳瓶に溜めたら、瓶いっぱいになったのよ~」
聞いているこっちが痒くなりそうです。
焼け野原となった東京
じつは、講談社には戦前から出版物に使われたさまざまな資料写真が残っており、山田青年の日記に出てくるような戦中の暮らしぶりがうかがえる写真もありました。
こうした戦時下の日常を淡々と記録しながらも、山田青年の身にも次第に戦火が迫ります。
昭和19年にマリアナ諸島が陥落。日本全土はB29を始めとする米爆撃機の攻撃圏内に入り、空襲が本格化しました。当初は軍関連施設が狙われていたものの、昭和20年には一般の人々が暮らす町にも焼夷弾が降り注ぐのです。不戦日記にはこうあります。
〈三月十日 午前零時ごろより三時ごろにかけ、B29約百五十機、夜間爆撃。
東方の空 血の如く燃え、凄惨言語に絶す。爆撃は下町なるに、目黒にて新聞の読めるほどなり。〉
私の母は、現在でも人形町(東京都中央区)にある明治座という劇場には、頑なに行こうとしません。
「東京大空襲で日本橋一帯は丸焼けになったんだけど、一番悲惨な死に方をしたのが明治座の地下に逃げ込んだ人達だった。あのあたりには民間の大きい建物は他にそんなになかったから、空襲の時は明治座が指定避難所になっててね。
東京大空襲の日、地下室が満員になるまで人が逃げ込んだんだけど、熱で扉が開かなくなっちゃって……全員、“蒸し焼き”になったのよ。戦後、再建されてもまた出火して焼けちゃって。それで、祟りだ、幽霊が出る、って 」
東京大空襲の前に疎開していた母ですが、年長の兄姉たちは勤労動員のために日本橋に残っていましたから、そうした話を何度となく聞かされたのでしょう。
「その頃、小学校高学年だったんだけど、浜町公園で遊んで家に帰る時に、明治座の焼け跡前を通るのが怖くてねぇ…外壁を残して焼け落ちてたんだけど、それがかえって怖くて、そっちを見ないように下を向いて走って通り過ぎたものよ」
「大人達は、しばらくしたら気にしなくなったし、その後『明治座の食堂は美味しい』って評判になって、お客も戻ったのよね。ただねぇ、私はどうしても子供心に感じた、あの恐ろしさが忘れられなくて……」
明治座の前には、今でも犠牲者を供養するための「明治観音堂」という石堂が建っています。
昭和20年5月24日。山田青年の住んでいた目黒も空襲に見舞われるときがやってきました。
〈西にも東にもB29が赤い巨大な鰹節みたいに飛んでいる。
ザザッ――ダダダッと凄じい音がして、ついにこの一帯も焼夷弾の雨の中に置かれた。〉
4月から5月にかけての「山手大空襲」によって寄宿先を焼け出された彼は、山形に疎開。そこで後に妻となる女性を目にするのでした。
〈国難! 幼い日にきいたこの言葉は、何という壮絶な響を含んでいたろうか。
僕は日本を顧みる。
国民はどうであるか? 国民はすでに戦いに倦んだ。一日の大半を腐肉に眼をひからす路傍の犬のごとくに送り、不安の眼を大空に投げ、あとは虚無的な薄笑いを浮かべているばかりである。〉
終戦の前日、山田青年はいよいよ追い詰められた日本の未来を考え煩悶します。
「いまだ曾て敗れたることなき歴史に汚辱を印して、なんの顔(かんばせ)あって子孫にまみえよう。吾らは戦う。生きてこの汚辱を子孫に伝えんよりはむしろ全滅するを選ぶ」
そんな文面の檄文を町に貼り出すことを思って、寝床の中で長い夜を過ごしていました。
が、翌日の正午――。ついにその日を迎えます。
「子孫」である私たちにとって、山田青年の体験は、決して無関係ではないのです。
8月6日発売のモーニング誌『風太郎不戦日記』では、昭和20年8月15日、終戦の日の様子が描かれています。
『風太郎不戦日記』の最新情報はこちらから:@fusendiary
- 取材・文:花房麗子
- 写真:講談社写真資料室