焼鳥屋を救い、ラグビー代表引退を撤回 山中亮平が切り開く新境地 | FRIDAYデジタル

焼鳥屋を救い、ラグビー代表引退を撤回 山中亮平が切り開く新境地

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新型コロナウイルスの感染拡大下、ラグビーワールドカップ(W杯)日本大会で8強入りした日本代表の山中亮平は自身の知名度を活かして焼鳥屋を支えていた。以前は代表活動に一区切りを打とうとも考えていたベテランが、副業でエネルギーを得たことで「ずっとトップの選手としてやっていきたい」と決意を新たにしている。

兵庫県神戸市にあるチキンマーケット本店は、神戸製鋼の現役ラグビー部員の行きつけの焼鳥屋だ。ニュージーランド代表の司令塔としてワールドカップを2連覇したダン・カーターも、同部在籍時によく訪れた。

試合のある週末の夜は、10坪程度のカウンター席を大男が埋める。焼肉屋を出た後の2軒目に寄るのが定番コースのようで、看板の串や人参のサラダが卓に並ぶ。

ピンチが訪れたのは今年の4月上旬。新型コロナウイルスの感染が広まったため、営業自粛を余儀なくされる。神戸製鋼が挑む国内トップリーグは、それ以前からシーズンを中断させていた。

「力に、なりたいんですけど」

店主の森田明憲さんに山中がこう告げたのは、ちょうどそんなタイミングだった。W杯の日本代表としても持ち前のランやキックを披露した神戸製鋼のフルバックは、ファッションの趣味が森田さんと似ていた。

折しも森田さんは、それまで予約客に出していたもつ鍋や水炊き鍋を冷凍製品にして全国配送を始めていた。経営危機を抜け出すための新商品はまもなく、山中や同僚の山下楽平らのSNSの宣伝で飛ぶように売れる。これだけでも森田はありがたかったが、山中はそれ以上の「力」を発揮する。

自身が関わる「OFF THE FIELD」というプロジェクトとのコラボレーションTシャツを作り、売り上げの一部を寄付に充てたのだ。

当世風の大きなシルエットの白地に赤や黄色のロゴや文字をあしらった1枚は、本来のターゲットである若い男性のみならず女性ファンにも届いた。こうして、一時は売り上げが平時の半分程度に落ち込んだというチキンマーケットは急場をしのいだのである。

「経営者となっている義理の兄にとってもありがたかったと思います。(W杯出場選手の)圧倒的な力を感じました。厳しい状況に陥ってしまったなか、うちの店にも目が行き届くという視野の広さも感じました。ここまでのことをしてくれるなんて、思いもしなかったですね」

このように森田さんは、グラウンド外における山中の心と視野の広さに感銘を受けた。鍋を買ってくれた消費者からこんな連絡を受けた時は、その認知度も再認識した。

<営業が再開されたら、あのコラボTシャツを着て食べに行きます!>

山中が「OFF THE FIELD」を立ち上げたのは、ラグビーブームが巻き起こっていたW杯直後のことだ。パートナーは吉谷吾郎氏。W杯日本大会の『4年に一度じゃない、一生に一度だ。』というキャッチコピーを生み出したクリエーターで、山中とは早大ラグビー部の同級生だ。かねて身体の大きな男性用の服を作りたがっていた2人は、時世の流れを逃さぬよう動き出した。

始動時の柱は「DELIVER RUGBY BALL TO JAPAN」。トレーナーが1枚買われるたび、キッズサイズのラグビーボールを1個ずつ作るアクションだ。最終的には合計1000個の楕円球ができ、抽選で絞られた合計150か所の幼稚園、保育園へ渡った。

山中(左)が関わる「OFF THE FIELD」というプロジェクトとのコラボレーションTシャツを着て店を見上げる森田さん(右、提供:チキンマーケット)
山中(左)が関わる「OFF THE FIELD」というプロジェクトとのコラボレーションTシャツを着て店を見上げる森田さん(右、提供:チキンマーケット)

大阪の東海大仰星高校時代から次世代の星と謳われてきた山中だが、競技を始めたのは14歳の頃と決して早くない。ラグビーを知らない子どもがラグビーボールの形や手触りを覚えることは、競技文化の定着を促すと信じていた。

「僕も小さい時、野球やサッカーというスポーツは知らなかったけど、バット、ボールがあれば遊びのなかでそれらしいことはしました。ただ、ラグビーは、中学2年で始める前までは身近にある感じではなかった。だんだんラグビーが認知されているいま、子どもたちの近くにラグビーボールを置いて触れる機会をどんどん作って、そのボールで遊べたら、(競技を覚える前に)ラグビーに触れることになる。…これ、いいことだと思うんですよね」

新しいことをすれば異論に出くわす。当初はtwitterで<天狗になるな>といった旨で水を向けられたものだ。

しかしそんな時も、山中は<昔天狗になって鼻バキバキに折れたんでもうこの先どうやっても伸びないです>と頓智をきかせる。

学生だった2010年に代表戦デビューも、W杯に出られたのは日本大会が初めてだった。その途中には、ドーピングに関する認識不足により表舞台に立てない時期もあった。凸凹な道を歩むうち、しなやかで強い哲学を築いていたのだ。

「何でも、マイナスなまま終わらせたくないですよね。自分にとってよりよくて、皆にとっても楽しんでもらえるようにしたい」

やがて大好きな飲食店をも助ける「OFF THE FIELD」の取り組みは、本業のアスリート活動へも刺激を与えた。以前は日本大会が「最後(のW杯)になると思う」としていた山中だったが、その心境が変わったようなのだ。

今度の6月22日で32歳。2023年のW杯フランス大会のことは「先過ぎて、想像はできていない」とするが、限界は設けない。

「2019年本当に(日本大会)が終わるまでは、本当に2019年が最後と(いう考えだった)。それくらいの気持ちじゃないと出られないと思っていたので、そこにラグビー人生の全てを賭けた。

そして、そこに出られ、夢も叶って、目標も達成した。この先また目標を見つけないと選手として終わってしまう…というタイミングでこの活動(「OFF THE FIELD」)を始めたのですが、やるからには子どもたちに夢を持ってもらいたいし、そのためには自分がずっとトップの選手としてやっていかないと…という気持ちになりました。もっと上を目指して、目標を高く持ってやっていきたい。まだ、全然、いけると思う。4年後のことも見ながら、まずは目の前のことをしっかりとやっていきたいです」

季節が春から夏へ変わりつつあるなか、チキンマーケットは通常営業を再開させている。徐々に元の状態を取り戻そうとしながら、鍋の通信販売も続ける。コロナ禍にあって、新たな販路を切り開いたと言える。

「OFF THE FIELD」も、2人の母校である早大へのサポートなど新たなフェーズに突入しそうだ。飲食店とのコラボレーションは今回限りとするが、この動きをまねるアスリートがたくさん出ることを願う。

ラグビー選手としての山中もまた、トップリーグのシーズンが不成立となったのを受け基礎体力を再点検。ひとけの少ないビーチでの走り込みや登山など、足場の悪いなかでの鍛錬で上手な身体の使い方を覚える。

複数の代表関係者によれば、ジェイミー・ジョセフヘッドコーチ率いる今年の日本代表は約50名の候補選手をリストアップ。練習メニューを共有する。山中もその1人だろう。

「日本代表の試合…。今年、あるかどうかわからないですけど、あるのならそこでアピールしていきたい。段階を踏んでやっていきたいです」

6、7月に開催予定だったウェールズ代表、イングランド代表とのゲームが秋以降にあるのを信じ、悔いなき日々を過ごす。

  • 取材・文向風見也

    スポーツライター 1982年、富山県生まれ。成城大学文芸学部芸術学科卒。2006年よりスポーツライターとして活躍。主にラグビーについての取材を行なっている。著書に『サンウルブズの挑戦 スーパーラグビー 闘う狼たちの記録』(双葉社)がある

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