日本サッカー界 歴史的ゴールの裏にあったヒデと野人の「秘話」

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1998年フランスW杯の日本代表・岡田武史監督の話を聞く岡野雅行(右)と中田英寿(左から2人目)。2人は練習から呼吸があっていた(アフロ)

新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、中断していたサッカーJリーグが6月27日、約4カ月ぶりに再開。開幕となったJ3は鳥取がC大阪U23を1―0で下し、白星でスタートした。5日に本拠地初戦を迎えるJ3鳥取の代表取締役GMをつとめる岡野雅行は、自らのゴールで日本サッカー界の歴史を変えた「あの時」から通じるある思いを改めて胸に刻んでいた。

23年前も命がけで戦った

「今季はこのまま試合ができないのではないか、と考える人もいたぐらいでしたから、試合ができたこと自体、うれしかったです。両チームの選手の球際が激しくて、『試合がしたかったんだな』ということが伝わってきた。なかなか点が入らない展開の中で、コーナーキックから1点をとれた。一つのチャンスを狙いに行く集中力がすごかったし、1-0で勝てるチームは強い。地元鳥取のサポーター、スポンサー企業の方もきっと喜んでくれていると思います」

会場の大阪・ヤンマースタジアム長居には行かず、都内でリモート観戦した岡野GMは、幸先のいいスタートに胸をなでおろした。

「2月以降、鳥取には戻れていません。クラブの職員や選手と直接会って話をしたいこともありましたが、僕は選手を守らなければいけない立場なので、移動したことが感染につながって、試合ができなくなることは絶対に起きてはならない。その分、リモートでクラブの人と日々やりとりをしてきました。
 ずっと言い続けたのは『謙虚な気持ちでやり続けよう、できることに感謝しよう』ということ。新型コロナによって試合ができること、お客さんに来ていただけること、仕事をすること、すべてが当たり前ではなくなりました。だからやれることに感謝しないと。でもそう言い続けたのは、今回つらい経験をしているから、というだけでなくて、今まで起きてきたことがすべてつながっているからなんです」

そう明確に考えられるようになったのは1997年11月16日、岡野がワールドカップ(W杯)最終予選・第3代表決定戦で、日本代表をW杯切符に導く決勝ゴールをあげてから15年ぐらい経過した頃のことだった。

「小学校にあがる前の娘に歴史図鑑を買ったんです。娘は『パパが図鑑に出ている』って驚きましたね。(1995年に発生した)地下鉄サリン事件の後にジョホールバルの歓喜の話が1ページが割かれていた。その時、娘には『違うよ、パパじゃなくてクロマニョン人だよ』と冗談を言いましたけど(笑)、1ページ割いてもらった意味を改めて感じて、この意味を伝えていかなければいけないと考えるようになりました。あのゴールの後、帰国すると『久々にいいニュースが飛び込んできました』と周囲の方に感謝してもらったんです」

ジョホールバルの歓喜の2年前、1995年にオウム真理教による地下鉄サリン事件がおき、1997年2月には「酒鬼薔薇聖斗」を名乗る中学生による神戸児童連続殺人事件が発生。暗いニュースに覆われていた時代だったからこそ、明るいニュースのインパクトは絶大だった。

「あの時の日本代表はW杯予選全試合が土俵際で紙一重の試合ばかりでした。勝てなかった試合では全員が号泣したりしていた。胃薬を抱えながら試合に出ていた選手もいたんです。今では6大会連続で出場し、出場することが当たり前になっていますが、当時はW杯に出場するために、本当に選手も協会の人も命がけで戦っていたんです」

イラン戦の決勝Vゴールの直後。岡野雅行(右端)はカズ(右から2人目)や岡田武史・日本代表監督のもとに全力疾走で飛び込んだ

中田英寿から言われ続けた「お前しかいない」

岡野は歴史的ゴールを決めた瞬間、そこに至るプロセスは、今でも事細かに覚えている。初のW杯への切符を手にするには勝つしかないイラン戦。前半40分に中山雅史が決めたが、後半1分、14分と立て続けに決められ、逆転を許す。しかし後半31分に途中交代で入った城彰二が決め、同点に追いつく。ベンチにいる選手でさえ息をのむ一進一退の攻防の中、岡野は延長戦から投入された。

「ゴールを決めたこともそうですが、3回外したことも、鮮明に覚えています。すべてがスローモーションで動いていました。それなのに3回も外しちゃって。『あしたのジョー』というボクシング漫画で力石徹との試合の名場面、まさにあの世界でした。僕も含めてみんなスローモーションで動いている中で、何度もパスをくれたのがヒデ(中田英寿)でした。それも突然、いいパスばっかり出てきた。それでも外しまくる僕に、あいつは年下のくせして『お前しかいないから!』と何度も言ってくれたんです」

外しまくった直後の延長戦ハーフタイム。名波(浩、元磐田監督)たちから「しようがないよな、岡ちゃん。こんな場面なら誰でも外すって。気にすんなよ』と笑顔で慰められていた。

「みんなでフォローしてくれた。いろいろあったけど、チームになったなぁと実感しました。あのゴールは僕が入れたんじゃない、みんなの思いで入ったゴールです。そう確信しています。

あとになって聞いた話ですが、ヒデは厳しいアジア予選が続いている時に岡田(武史・日本代表監督)さんのもとに一人でいって『なぜ岡野を使わないんですか?』と直談判してくれたそうなんです。僕も決勝ゴールを決めたイラン戦を含めて、あの年はW杯予選だけで15試合あったのに、出場できたのは途中出場の4試合だけでした。あの頃の代表ではヒデのパスの速さについていけない選手もいたんですが、練習では僕とぴったり息があっていた。すごいゴールを何度も決めていたんですよ、練習では(笑)」

決勝ゴールを決めた当時の映像を見ると、歴史的ゴールの後、岡野は日本のベンチではなく、イランのベンチにむかって走っている。

「あのままイランベンチに飛び込んでいったらと思うと…今でもゾッとします。彼らだって負けたら『むち打ちの刑があるんじゃないか?』とか報道されていて必死でしたから。

何とか軌道修正できたのは、岡田さんのおかげですよ。トレードマークの眼鏡が大きく上下にすごい動きで震えるほど、猛烈なダッシュで僕のところに来てくれましたから」

歓喜の輪が解けてベンチに戻ると、意外な光景を目の当たりにした。

「岡田さん、へたりこんでたばこを吸ってました。『大丈夫ですか?』と声かけたら、『(絶好機に3本外した)お前のおかげでヘトヘトやぁ!』と。『でもありがとうな、言う通りに動いてくれて』…。それも一生忘れられません」

帰国すると成田空港で盛大な出迎えが待っていた。その後はしばらく街を一人では歩けなくなった。

「選挙の街頭演説の時のようにみんな僕に手を差し出して握手しにきてくれて、表参道の交差点を1度じゃ、渡り切れないこともありました。ありがたいことに、今でも初対面のアスリートの方々から『W杯に連れて行ってくれてありがとうございます』と声をかけていただきます。プロ野球の巨人やメジャーで活躍した上原(浩治)さんもその一人です。あの頃、今みたいに写メが流行っていなくてよかった(笑)

当時は考えられませんでしたけど、結局はJリーグができ、さらにさかのぼると釜本(邦茂)さんたちなどプロ発足前の時代から頑張ってこられた先輩方のおかげで『あの時』があって、今がある。だから感謝しなければいけないと思うんです。繰り返しになりますけど、サッカーができることは当たり前じゃないんですよ」

鳥取の次戦は7月5日、今季初めて本拠地で岐阜戦を迎える。岡野は約5か月ぶりに鳥取に戻る。現役時代、『犬より速い』と言われた猛スピードでピッチを走り回った「野人」は、国内を移動できることにさえ、ありがたみを感じている。

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