外国人捕手はなぜ少ない?中日アリエル・マルティネスにかかる期待 | FRIDAYデジタル

外国人捕手はなぜ少ない?中日アリエル・マルティネスにかかる期待

日本球界に久しぶりに現れた外国人捕手。その歴史は意外に古い!

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7月4日の巨人戦で初マスクをかぶったアリエル・マルティネス(中日)
7月4日の巨人戦で初マスクをかぶったアリエル・マルティネス(中日)

7月4日の巨人-中日戦で、中日のアリエル・マルティネスが捕手として出場した。外国人選手が一軍の試合でマスクをかぶったのは、2000年7月19日のヤクルト-中日戦の中日ディンゴ以来、約20年ぶりだ。

この試合6回裏からマスクをかぶったマルティネスはルイス・ゴンサレスとバッテリーを組み、吉川尚輝を二塁で刺している。

「外国人捕手」は、プロ野球草創期からいた。

プロ野球創立の1936年、名古屋軍(のちの中日)の初代正捕手は、アメリカ、カリフォルニア出身のバッキー・ハリスだった。ハリスは本名はアンドリュー・ハリス・マクギャラードだったが、日本側が殿堂入りしたMLBの名選手、大監督のバッキー・ハリスにあやかってこの登録名とした。ハリスはMLB経験はなくAAのサクラメント止まりで、あとはセミプロ野球の経験しかなかったが、草創期の日本プロ野球では実力は抜群で、1937年秋はMVP、1938年春には本塁打王を獲得

強肩で座ったまま二塁に矢のような送球をした。リードも巧みだった。日本語は小学校の読本で覚えたが、試合中も「もーもたろさん、ももたろさん」など童謡を口ずさんでいたという。日米の関係が悪化したこともあり3年で退団している。ハリスは、アメリカに帰っても日本での思い出を大切にしていて、実家に多くの資料を保存していた。

同時期に阪神軍の正捕手だったのが、ハワイ出身日系二世の田中義雄。通称カイザー田中。プロの経験はなく大学、アマチュア野球出身。眼鏡をかけていたが俊敏な守備と強肩で鳴らした。カイザー田中は日本国籍を取得して1944年には日本軍に応召し、そのまま引退。戦後は阪神の指導者となり。1959年6月、後楽園球場の巨人―阪神戦で長嶋茂雄が天覧サヨナラホームランを打った当時は阪神の監督を務めていた。

バッキー・ハリスやカイザー田中はキャッチングやリード、捕手の守備などアメリカ仕込みの技術を日本選手に伝授する役割を担ったといえるだろう。

戦後も外国人捕手の活躍した時代があった。

1952年、巨人に入団した広田順はハワイ出身の日系選手。1952年から55年まで巨人の正捕手として別所毅彦など大投手の球を受けた。1953年から55年までベストナイン。この捕手も強肩だった。

また1954年に毎日オリオンズに入団したチャーリー・ルイスはアマチュアのハワイアサヒ軍出身だったが、1954、55年と毎日の正捕手になりベストナインに選出されている。

同じ1954年に高橋ユニオンズに入団したサル・レッカもこの年打率.200ながら23本塁打を打っている。

1962年に大毎オリオンズに入団したニック・テスタはこの年53試合でマスクをかぶった。テスタは1958年4月23日にサンフランシスコ・ジャイアンツの捕手としてセントルイス・カーディナルス戦に1試合だけ出場している。MLBでプレーした経験のあるNPB捕手は彼が初めて

1960年頃までの日本プロ野球はMLBとは大きな実力差があり、アメリカのマイナーリーガーでも打撃は通用した。この時期の投手の球種は少なく、捕手とのサインも単純なものだった。

しかし1960年代半ばになって巨人がMLBの戦法をもとにきめ細かな作戦を立てるようになって、捕手の重要度が増した。守備の要としての捕手は投手や野手との連携が不可欠となり、言葉が十分に通じない外国人捕手の起用は少なくなっていった。日本独自の「クイック投法」への対応も難しかったという。

以後も、「外国人捕手」は散見されるが、一時的な起用にとどまっている。

1977年に広島に入団したエイドリアン・ギャレットはMLBでは25試合に捕手として出場。「外野、一塁が本職だが捕手もできる」という触れ込みで入団。当時の広島には水沼四郎、道原博幸という捕手がいたが、古葉竹識監督は4月17日の阪神戦からギャレットを5番捕手で先発起用。この間1盗塁を許しただけだったが、打棒を活かすためにその後は一塁、外野で起用された。188㎝86㎏の大型のギャレットが日本人用のプロテクターをつけるとランドセルをつけているように見えたものだ。NPB通算では12試合でマスクをかぶった。

1990年7月29日のダイエーロッテ戦ではロッテのマイク・ディアズが4番捕手で先発出場。この年15試合でマスクをかぶった。MLB時代は13試合で捕手を務めていた。

2000年7月19日のヤクルト-中日戦では7番左翼で出場したディンゴ(デーブ・ニルソン)が途中から捕手になった。ディンゴは前年の1999年、ミルウォーキー・ブルワーズから捕手としてオールスターに選出されている。日本に来た外国人捕手としては飛び切りのキャリアだったが、NPBでの捕手出場は1試合に終わった。

日米の「捕手の役割」が大きく異なることを知らしめたのが、城島健司だ。

城島はソフトバンクから2006年にMLBマリナーズに移籍、強打の捕手として活躍した。しかし次第にマリナーズの投手との間に不協和音が聞こえるようになった。MLBでは投手が球種を決めるのが主流なのに対し、城島は自らが投手をリードするやり方だった。これがエースのフェリックス・ヘルナンデスなどの不興を買い「城島が捕手では投げたくない」という投手が増えて、契約途中で日本に復帰せざるを得なくなった。

それだけ日米の「捕手の役割」は大きく変わっているのだ。

2013年には、ベネズエラ出身の捕手ケビン・モスカテルが、DeNAと育成契約。しかし2年で退団。一軍出場はなかった。2015年は、これもベネズエラ出身のアレハンドロ・セゴビアが捕手として楽天と育成契約。しかしこの年限りで退団、彼も一軍出場はなかった。

アリエル・マルティネスはキューバ国内リーグの出身。キューバ時代はシュアな打撃で鳴らした。また盗塁阻止率は.390(43盗塁27回盗塁刺)と強肩。

まだ24歳と若いうえに、アメリカでの捕手経験がなく、NPBの捕手技術を先入観なく吸収できたことが、捕手としての出場につながったのではないか。

中日にはルイス・ゴンサレス(ドミニカ共和国)、エニー・ロメロ(ドミニカ共和国)、ライデル・マルティネス(キューバ)、育成でサンディ・ブリトー(ドミニカ共和国)、ヤリエル・ロドリゲス(キューバ)とアリエルと同じスペイン語圏の外国人投手が5人もいる。

外国人投手専用の捕手として面白い働きをするかもしれない。

  • 広尾 晃(ひろおこう)

    1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライターやプランナー、ライターとして活動。日米の野球記録を取り上げるブログ「野球の記録で話したい」を執筆している。著書に『野球崩壊 深刻化する「野球離れ」を食い止めろ!』『巨人軍の巨人 馬場正平』(ともにイーストプレス)、『球数制限 野球の未来が危ない!』(ビジネス社)など。Number Webでコラム「酒の肴に野球の記録」を執筆、東洋経済オンライン等で執筆活動を展開している。

  • 写真時事通信社

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