炎上を恐れぬ男・立川談志に“少しだけ”学ぶ総炎上時代の生き方
談志いるところに事件あり。炎上、暴行、反逆の歴史を振り返る
SNSの発展で毎日のように炎上騒ぎが起きている昨今。
友人同士で日常のやり取りをするのにも、いつ炎上するかわからない危険をはらんでいる一方で、炎上を恐れずにずけずけとした物言いで存在感を放っている芸能人や著名人が多いのも最近の傾向だ。
そんなSNS文化が発達する以前から、炎上上等で我が道を行く落語家がいた。それが、2011年に他界した落語界の異端児であり、大名人だった五代目立川談志だ。
談志は勝気な性格からか、自らも愛する落語の世界の住人であろうとしたのか、自由奔放で毒のある発言を繰り返しては、いたるところでさまざまな反発や事件を生んできた人物だ。
ただ、落語の実力や世相を斬る能力は衆目が認めるところであり、落語会だけでなく、テレビやラジオ、週刊誌の連載などで独自の感性を発揮し、没後の現在でも多くのファンをから厚い支持を得ているのも事実。

また、その弟子である立川志の輔、立川談春、立川志らくたちも落語だけでなく、バラエティ、ドラマ、ワイドショーなどでも存在感を放っているなど、そのDNAを受け継いだ人物をはじめ、芸事や思想など、後世に残した影響も大きい。
ちょっとしたことで炎上騒ぎになる今だからこそ、そんな談志の炎上発言や失敗談、談志に振り回された人たちなどのエピソードを振り返りつつ、炎上を恐れず我が道を行く生き方も“多少の”参考にしてみたい。
談志の“炎上”エピソード
政務次官二日酔い会見事件
1971年、35歳のときに参議院議員選挙全国区に出馬。ギリギリの50位で当選し、心配しながら速報を見ていた関係者に「真打は最後に上がるものだ」と一言。その後、1975年に沖縄開発庁政務次官に任命され、那覇の海洋博の視察後の記者会見に二日酔いで出席して大問題に。地元記者の「公務と酒、どちらが大切なんだ」の問いに「酒にきまってんだろ」と言い放った結果、見事に炎上。
わずか36日で政務次官を辞任した。その後、寄席に出演すると呼び込みスタッフが「さあ、いらっしゃい。これから政務次官をしくじった奴が出ますよ」と言って呼び込みをするようになったという。国会議員は任期の1977年まで務めている。

緑のおばさん発言
1971年、素行の悪い若い女性の集団に向かって「今はまあ楽しめ、ブスは緑のおばさんになるしかねえんだから」と発言(※緑のおばさんは児童の通学路で安全を見守る学童養護員の愛称)。この発言に、緑のおばさんをはじめ、多くの女性やマスコミから当然ながら猛バッシングされる事態に。しかし、当の談志本人は「本当のことだからしょうがねえ」と突っぱねたという。
小池百合子が東京都知事に当選したとき、談志の弟子の談四楼はなぜかこのエピソードを思い出していた。
談志の災難
暴漢襲撃事件
1968年、大阪で後ろから車にクラクションを鳴らされたことに腹を立て「うるせえ!」と怒鳴ったところ、鳴らした相手の暴力団員とケンカになり、刃物で額を斬りつけられて入院。見舞いに来た毒蝮三太夫が、談志の横一文字に開いた傷に百円玉を入れようとする。談志曰く「オレの頭は貯金箱じゃねえ」。

一千万円詐欺事件
とあるIT企業の経営者から「出資金が100倍になる。100万円乗りませんか」と持ち掛けられ、銀行勤務の知り合いに相談したうえでその話に乗ることに。さらに「一千万円が十億円になるなら面白い」と一千万円でその会社の株を買った。案の定、その社長とは連絡が取れなくなり、会社ももぬけの殻で一千万円を失ってしまう。このことを聞いた毒蝮三太夫は喜んだ。
談志、大物に噛みつく
大平正芳からの借金
衆議院議員時代、自宅を購入することになった談志は、後の総理大臣で当時は大蔵大臣だった大平正芳から3千万円の借金をしたが、振り込まれた額を確認すると利子分が引かれていた。このことに怒った談志は大蔵大臣室に乗り込み「利子のつく金なら、俺はいくらでも借りられる。今まで金を借りたことがない江戸っ子が金借りにきたってのは、そういう意味なんだ。利子のつく金なんて、借りたくもなんともねえ」と啖呵を切ったところ、大平は「悪かったなあ。利子をつけんと、君のプライドに触るんじゃないかと思った」と言い、この返しには参ってしまった、と自身で語っている。
落語協会脱退事件
弟子が落語協会の真打昇進試験に落とされたことでそれまでに協会に対して持っていた不満が爆発。1983年に所属していた落語協会を脱退し、落語立川流を創設、家元となる。この騒動は当時、落語協会の会長であり、談志の師匠でもある五代目柳家小さんと談志の大ゲンカだと言われた。
だが、当の本人同士は、「師匠、倅の三語楼閣(六代目柳家小さん)を連れていきますよ」(談志)、「頼むよ」(小さん)というやり取りがあったり、小さんも談志が新しい協会を作る(※落語家は落語協会か落語芸術協会のどちらかに所属していないと寄席に出ることができない)ことにも賛成しているなど、険悪な雰囲気ではなかったが、小さんが談志を気遣って「名前だけでも協会に名前だけは残しておけよ」と言ったことに、小さんの他の弟子が猛反発して、ケンカ別れのようになってしまったのだとか。
とはいえ、談志は師匠である小さんに「へたくそな落語しやがって」と言ったり、新年会でケンカになってヘッドロックをかけたりたりと、ずいぶんな狼藉を働いていた。
それも談志に言わせると「親子のような間柄」といい、小さんも「本気になったら俺の方が強い(小さんは剣道七段で軍隊経験もある)」と談志に対してはおおらかだった。小さんが亡くなった際、談志は「師匠はいつも俺の心の中にいる」とコメントしているなど、周囲が思っているほど悪い関係ではなかった。
談志に振り回される人々
談志のクッキング
食べ物を無駄にしなかった談志。談春によると、弟子入りしたばかりのころに、談志の家でカレーを作ることになった際、余っていたチーズケーキを入れようとしたという。「何驚いてるんだ。卵にチーズに小麦粉だろ。まずいわけねぇじゃねぇか」と言い、その後もソースやケチャップ、豆板醤などを入れて2時間煮込んでカレーを完成させた。味は「意外にもうまかった」(談春)。
「TVタックル」無言事件
ビートたけしが司会を務める討論番組『TVタックル』(テレビ朝日系)に談志がゲスト出演したが、プロレスラーのデストロイヤーにもらった覆面をかぶって、二時間の収録中に無言を貫く。ようやく最後になって覆面を取り「納豆がうまい」と一言だけしゃべって収録は終わった。ビートたけしも「ちきしょう、やりやがった!」と悔しがり、後年に当時を振り返り「『タックル』って、あやしいけど一応は政治の番組じゃない? それがデストロイヤーの覆面をかぶって、誰か分かんない人がずっと座ってるんだからさ」と参った様子を語っている。
飲食店の色紙には「我慢して食え」
地方に行った際に入った飲食店でもサインを求められることもしばしば。志の輔がお供について行ったとき、注文したメニューがイマイチで「あんま、うまくねえな。さっさと食って出よう」と話していたところに、ファンだという店主が、一言添えてサインをお願いしてきた。無下に断るわけにもいかず、「我慢して食え」と書いて渡した。店主に渡した志の輔は大変に気まずい思いをしたが、店主は「いやぁ、そうきましたか! さすが談志さんだ!」と喜んだという。談志も談志だが、ファンもファンだというエピソード。
また、イタリア旅行である土産物店に寄った際には、談志が日本の有名人だと知った店主にサインを求められたことも。そのときは「この店で買うときは必ず半値に値切れ。立川談志」と日本語でしたためた色紙を送っている。
声を失った後、弟子に伝えた最後の言葉
亡くなる3ヵ月前の2011年8月、銀座の行きつけのバーに談志の弟子たちが集合。手術で声帯を取り、声を失って筆談しかできなくなっていた談志は、席にすわるなり弟子たちへのメッセージを紙に書き始める。その言葉は女性器の俗称だった。

さすがに笑えない事件から、談志の人間らしさが垣間見えるエピソードまで、並の人間では真似できない言動の数々、いかがだっただろうか。これ以外にもエピソードは山ほどあるが、どんなことがあっても堂々と立川談志であり続けた姿は、良くも悪くもファンの心に刻まれている。そんな談志の生き様、一般人である我々には到底無理そうだが、せめてこれからの炎上時代を強く生き抜くヒントになれば……。ならないですかね?
参考文献:「談志 名跡問答」(立川談志/扶桑社)、「赤めだか」(立川談春/扶桑社)、「立川談志 最後の大独演会」(立川談志/新潮社)、「立川談志自伝 狂気ありて」(立川談志/亜紀書房)、「ザッツ・ア・プレンティー」(松岡弓子/亜紀書房)、立川談四楼Twitter(@Dgoutokuji)
取材・文:高橋ダイスケ