中田英寿との会食で決めた…岡野雅行の海外挑戦の舞台裏

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オランダの名門・アヤックスに練習生として参加していた1999年5月、日本代表としてコパ・アメリカ、ボリビア代表戦に出場(AFP/アフロ)

新型コロナウイルスの影響で中断していたJリーグが再開した。J3鳥取で代表取締役GMをつとめる岡野雅行は1997年11月、「ジョホールバルの歓喜」でサッカー日本代表がワールドカップ初出場につながるゴールを決めた。翌1998年のフランスW杯に出場してから今日までずっと貫かれてきた生き方がある。

なぜ名門・アヤックスに行けたのか

日本にとってはじめてのW杯となった1998年のフランス大会。日本はアルゼンチン、クロアチア、ジャマイカと対戦。3戦全敗に終わった。傷心帰国した岡野は当時をこう振り返る。

「W杯が終わったあと、海外移籍をしたくてたまらなくなりました。海外に行かないと世界の人たちに勝てないと感じたんです。そんな時、ヒデ(中田英寿氏)とごはんを食べました。2人の結論は同じでした。『確かにW杯は初出場だった。でも〝日本のテクニックは十分通じた。しかし足りないものがあるよね』って。それはズバリ『フィジカル』でした。だったら海外に行かなきゃ、身につかないだろってね。周りからは『そんなのやめておけよ、無理だ』と言われましたが、僕はいつも『やめておけ』と言われるほうを選んできましたから」

振り返れば、日大在学中にJリーグのスカウトから声がかかったときも、友人からは契約を反対された。それでも「卒業を待たずに誘ってくれた」と日大を中退して浦和へ。その後わずか1年足らずで日本代表にまでのぼりつめた。この時も岡野は「心の声」に正直に生きたのだった。

中田氏はイタリア・セリエAの中堅クラブ、ペルージャに移籍が決まった。岡野はペルージャより格が高い、オランダの古豪、アヤックスからオファーを受けた。フィンランド代表の最多出場、最多得点記録を持つストライカー、リトマネンやデンマーク代表のミカエル・ラウドルップらが在籍していた。

「1999年1月から練習生として参加しました。僕にとってアヤックスのすごさは選手たちの質の高さではもちろんですが、天然芝のグラウンドが実に7面はあったことです。それが小さい子供たち、ユース、そしてトップチームと、それぞれの専用練習グラウンドとしてあったんですから! そのグラウンドの隣に6万人収容の本拠地スタジアム(ヨハン・クライフアリーナ)が建っていました。誰でも頑張ればあのスタジアムでプレーできるって。たまげましたね」

しかし1999年、浦和が大不調。2部落ちの危機にあったため、半年で帰国した。その後、2001年、当時の浦和の監督から信頼を得られず、ベンチ外になることが多くなり、ヴィッセル神戸に移籍。2004年に浦和に復帰したが、チームが若返りを図った2008年に契約満了に伴い、退団。翌2009年2月からアジア最古のリーグである香港リーグ1部の天水圍飛馬(現香港飛馬・TSWペガサス)でもプレーした。

「レッズから戦力外を受けて、浦和のサポーターが集う居酒屋『力』でのアルバイトで食いつなごうと思っていたころに、香港リーグのクラブがテストにきてくれって。それも公式戦で。それにクラブのオーナーはみんなとんでもないお金持ち。待遇もJ1とかわらなかったです。でも厳しいリーグで、3試合結果がでなかったらクビなるのがあたりまえでした」

半年後に香港リーグのシーズン終了を迎えた時は37歳。岡野は当時Jリーグ昇格を目指していた鳥取に移籍した。水面下では東京で芸人と共演のスポーツ番組のオファーも届いていた。日本代表のキャリアと抜群な知名度をもった岡野が見ず知らずの土地へ、それも何の縁もない鳥取への移籍は驚きしかなかった。

「鳥取の社長(塚野真樹氏)に都内のホテルに呼ばれましてね、来てくれないかって。一度練習を観に行って、空気は綺麗だし、ごはんも美味しく、チームの雰囲気もよかった。その時、アヤックスからオファーを受けたときのことを思い出したんです。オランダは欧州の中では小さな国です。でも世界の有名選手が集う名門クラブになりました。

鳥取もそう、日本の中では大都市じゃない。でもチームを強くすれば、J1に上がればとんでもないことになる!と思っちゃったんです。奥さんに反対されるかと思ったけど、『やりたければ、どうぞ!』でした(笑)。サラリーマン的にいえば単身赴任です」

Jリーグがスタートして今年で28年目に突入。数多くの日本代表も誕生したがこれだけの濃厚なキャリアを積んでいるのは岡野をおいてほかはいない。2009年7月に鳥取への移籍が決まった時、チームはまだアマチュアリーグ(JFL)。給料も浦和時代の最高年俸7000万円に加え、試合ごとの勝利給80万円の生活からサラリーマンの平均年収と同じレベルまでダウンした(金額は推定)。

「僕はW杯にもいかせてもらったし、浦和レッズ時代は6万人の大観衆の中でもやらせてもらった。優勝もした。でも鳥取に最初にきたときは数百人くらいしかお客さんがいなかった。河川敷で練習してシャワーもなかった。小学校で初めてサッカーをしたときの同じ感覚でしたねぇ。でもボールひとつで皆さんを楽しくワクワクさせたい。その思いは変わらず持っていたし、小さな町が多かったから反応も速かった。だからワクワクしていましたね」

鳥取加入3年目の2012年3月、キックオフカンファレンスに参加(アフロ)

鳥取で成し遂げたい「ゴール」とは

岡野には「鳥取でもうひと稼ぎ」という考えはなかった。地元企業のCMに出演したが、謝礼は「牛乳かお菓子だったかな(笑)」。1円も受け取らなかった。それよりも、鳥取をアマチュアからプロへ、Jリーグへ昇格させたい。その一心だった。ピッチの中では鬼軍曹になった日々もあった

「負けてもヘラヘラしていましたから。耳の痛いことも言った。僕がこれまでいろんなチームで経験してきたことがとっても大きかったですね。どのステージにいても、みんな勝ちたいと思う気持ちは同じでしたから。おかげで移籍して2年目、ホームゲーム年間17試合無敗で翌2011年からJリーグへ昇格できたんですけど、2013年にすぐJ3に降格してしまって……」

41歳になった2013年は、プロになってちょうど20年目。現役を引退し、東京へ戻ることを考えていた。

「ずっとプレッシャーのかかる仕事をやってきたので、同じプレッシャーでも自分が自分にかけるプレッシャーの中で仕事できないかなって思っていたんです。その時に社長から『GM』になってくれって言われて。『パソコンの開け方もわかりませんよ』と言ったんですが、やるしかない状況に追い込まれましてね。一番最初に会社に行って掃除をするところからはじめました」

塚野社長について企業を訪れ、頭を下げて回った。動くことで気づかされたことがあった。

「事務所でパソコンを見ながら仕事をしていても、サッカーに興味をもってもらえない。鳥取で経営者をつとめられている方の多くは野球で育っていました。サッカーには興味がなかったんですよ。でもサッカーをやってきた僕たちが目の前に行って話をすると『そうか、それなら応援しよう』と気持ちを動かすことができる。

SNSがこれだけ発達していますけど、興味を持ってもらえなかったら『調べよう』と検索してくれることもない。検索してもらう対象になるように、動くことが必要なんです。ウチはクラブとして選手やスタッフが地元の保育園・幼稚園訪問を去年まで年間300回以上続けていますが、おそらくJ1を含めた全クラブでも多い方ではないかと思います」

就任4年目の2017年に代表取締役GMに就任。引退してGMになってからはや7年目に突入した。

「今の目標はJ2にあがること。それだけです。でもJ2にあがれば、J1にだって行けると思っています。J2にあがったらこんなことができるなってことはいろいろ描いていますよ」

現役時代、鳥取からオファーを受けた当初、オランダの名門アヤックスと重ねて、「J1にあげればとんでもないことになる」と夢のように考えていた岡野だが、経営者となった今、すでに現実の目標として見据えている。

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