「悔しさをバネに」社会人で躍動する甲子園のあのスターたち

”奇跡のバックホーム””春夏連覇””金農旋風”……伝説のシーンを彩った”当事者”たちが抱く強い思い

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本日10日、甲子園球場で「交流試合」が始まった。この大会はセンバツ出場予定だった32校によるもので、例年の夏の甲子園は中止された。目標を失った高校球児たちはつらい日々を送っているはずだ。

ここに登場するのは、4人の甲子園のスター。彼らもまた、さまざまな思いを抱えながら、社会人野球を舞台に活躍している。

甲子園準Vエース「野球で受けた悔しさは野球でしか返せない」

仙台育英を甲子園決勝まで導いた佐藤世那。右ヒジに痛みを抱えながらの力投だった

「決勝は、心から楽しいと思えた試合でした。大会を通して一番打たれた試合。悔しい気持ちもありますが、『勝っても負けても自分の高校野球は終わるんだ』と思ったら、緊張より楽しさの方が勝りました」

2015年の準優勝投手・佐藤世那は語る。

早稲田実の清宮幸太郎(現・日本ハム)が1年生ながら豪快な打撃を見せ、関東一のオコエ瑠偉(現・楽天)が驚異的なスピードでグラウンドを駆け巡り、東海大相模・小笠原慎之介(現・中日)の剛腕が世間を驚かせたこの年の甲子園。

その中で、鋭いフォークと熱投で仙台育英を決勝に導いたエースが佐藤だった。

決勝では東海大相模に敗れたものの、全6試合で680球を投げた佐藤。このとき、右ヒジに痛みを抱えており、痛み止めを飲んだり、点滴をしながら試合に臨んでいた。

「右ヒジの痛みも『幸せな痛み』と思えるくらい、甲子園でプレーできるのは幸せなことでした」

佐藤は同年のドラフトでオリックスから6位指名を受け、プロ野球選手となる。しかし、ヒジの状態はおもわしくなく、わずか3年、21歳で戦力外通告を受けてしまった。

 「甲子園で大々的に注目をされて、よかったこともありました。しかし、プロに入って結果が出なかったことで、周りの評価が甲子園で止まったまま。そのことが悔しいです。それを変えるためにも、再びプロの世界で戦えるように準備をしています」

プロで活躍する同級生の動画が佐藤のやる気に火をつけている

 カンフル剤は「プロで活躍する同級生の動画」

一昨年戦力外を受けた後、佐藤には社会人の企業チームや独立リーグからも声がかかった。しかし、しっかりとケガを治すことを最優先に考えた佐藤が選んだのは、神奈川県にある社会人のクラブチーム「横浜球友クラブ」だった。

社会人の企業チームは会社に属しながら、毎日練習を行う。一方クラブチームの選手たちは別々の会社で仕事をこなし、休日などに集まって練習を行っている。活動費は自ら負担するか、スポンサーを探さなくてはいけない。

佐藤は電気設備を行うK・T・A株式会社に所属しながらプレーを続けている。昨年には右ヒジのトミー・ジョン手術もおこなった。

「プロ生活は悔しい思い出しかありません。だからこそもう一度プロに戻ってこの思いを払拭したい。野球の悔しさは野球でしか払拭できませんから」

しかし、今までとは違う環境での野球生活のため、気持ちが折れそうになるときもあるという。

「そんなときは、あえていまプロで活躍している同級生たちの映像をyoutubeなどで見るようにしています。

仙台育英で同期の平沢(大河・千葉ロッテ)や郡司(裕也・中日)、日本代表で一緒だった森下(暢人・広島)たちの入団会見やプレーの映像を見て、自分を奮い立たせています」

今年は新型コロナの影響で夏の甲子園は開催されない。悔しい思いをしている球児たちにむけて佐藤はこう語った。

「自分はこれまで悔しい思いをたくさんしてきたので、少しのことでは動じなくなりました。自分の経験と今年の高校生たちの悔しさは比べものにはなりませんが、それでも甲子園に出られなかった悔しさを乗り越えれば、必ず強くなれると思います」

横浜球友クラブでプロ復帰を目指す佐藤。まだ23歳だ

“金農旋風”に屈した左腕は「社会人の名門」からプロ入りへ

抜群のコントロールとキレのいいストレートを武器に甲子園で活躍した林優樹

吉田輝星(現・日本ハム)擁する金足農の快進撃が記憶に新しい2018年の第100回大会。この年、爽やかな笑顔で人気を集めた細身の技巧派サウスポーがいた。

近江の林優樹である。

金足農との準々決勝で「サヨナラツーランスクイズ」を決められて崩れ落ちる姿は印象的だった。林は今年、社会人野球の名門・西濃運輸に入社し、営業管理部商品企画課でデスクワークをしながら野球に励んでいる。

彼が2018年の甲子園でもっとも思い出に残っているのは、初戦の智辯和歌山戦だ。

「初戦を勝ち抜いたことが何よりの思い出です。今だから言えることですが、相手はその年のセンバツで準優勝をしているチーム。正直負けるだろうと思っていました。監督が『挑戦者の気分でいけ』と声をかけてくれたのが力になって、プレッシャーなく戦えたんです。

準々決勝の2ランスクイズも、もちろん自分を大きく成長させてくれました。『来年、後輩たちを何としてでも甲子園に連れていく』という責任感につながった貴重な経験です」

コロナ禍を生かしてパワーアップ

翌年、3年になった林は再び甲子園に出場し、プロ志願届を提出。指名には至らなかったが、社会人野球を選択したことに間違いはなかったと言う。

「両親から『(プロに)行くか行かないかじゃなくて、挑戦する権利を持っているのだからチャレンジして欲しい』と言われたことが、プロ志願届を提出したきっかけの一つでした。

ただ自分としては、練習をさせていただく機会のあった西濃運輸の投手コーチ佐伯(尚治)さんの野球観に共感していたんです。『この人と一緒だったらプロに入れる』。そう思いました。いまは佐伯さんの元で経験を積んで、3年後のプロ入りを視野に野球をやれることがうれしいです」

社会人野球もコロナの影響を大きく受けているが、林の社会人1年目は非常に順調だという。

「コロナで練習できない期間を身体作りに充て、体重を7キロ増やすことができました。入社当初1年かけてやろうと思っていたことがわずか3カ月で達成できました」

最後に、「甲子園のない夏」を過ごす球児たちにエールを送ってもらった。

「甲子園で注目していただけたことで“甲子園の人”と思われる機会が多いので、野球だけでなく、生活面でもしっかりしないといけないと強く感じています。

甲子園はそんな特別な場所。だからこそ、今年の中止を知ったときは、後輩たちにかける言葉が見つからなかったです。自分が同じ立場だったら立ち直れないと思うから、軽はずみなことは言えません。ただ甲子園はなくなってしまったけど、野球を通して3年間やってきたことは絶対に無駄にはならないことは伝えたいです。

交流試合に出場する32校の選手たちには、出場できなかった学校の想いも背負って元気づけられるプレーをしてほしいなと思います」

わずか3ヵ月で7キロ増量。林のプロ入りの準備は着々と進んでいる。指名解禁は2022年

病気を克服した春夏連覇チームの背番号「11」

甲子園のマウンドで投げたい――。その強い思いが平尾奎太の原動力だ

「センバツはヒヤヒヤするシーンが多々ありましたが、夏の甲子園は圧勝そのものでした。夏は一度も自分が投げたいと主張しなかったのですが、天理との準々決勝のとき自分から『ブルペンで練習をしてきてもいいですか?』と監督に言いました。藤浪の調子が良くて、結局投げられなかったのですが、それも今となってはいい思い出です」

平尾奎太はそう語る。

2012年、藤浪晋太郎(現・阪神)、森友哉(現・埼玉西武)、澤田圭祐(現・オリックス)らを擁する大阪桐蔭は、圧倒的な強さで春夏連覇をはたした。そのときの背番号「11」が、今Honda鈴鹿でプレーする平尾だ。

夏の甲子園でマウンドに立つことができなかった平尾。じつは高校2年のときにIgA腎症という難病に罹っていた。入退院を8回繰り返し、同志社大3年生になるまで野球が思うようにできなかった。

しかし、2017年、Honda鈴鹿に入社した平尾は、すぐに社会人最高峰の大会・都市対抗野球大会で2試合14回無失点と好成績を残し大ブレイク。同年秋に開催されたBFAアジア選手権の日本代表にも選ばれ、一躍ドラフト候補に名乗りを挙げた。

プロ入りに年齢制限はない

ところが、大卒社会人選手のドラフト解禁年である2018年も昨年も、平尾にプロから声はかからなかった。

「まだプロ入りを諦めていません。ドラフトに年齢制限はないので、まだ目指しています。甲子園の天理戦で、自分は投げたかったのに投げられなかった。でもプロに入れば甲子園で投げることができるかもしれない。だからまだ諦めていませんよ」

コロナ禍のため中止となった夏の甲子園。平尾は高校生たちに向けて「自身と同じように諦めない気持ちを大切にしてほしい」とアドバイスを送る。

「“今”ではなくて、世の中が良くなったときのことを考えて動いて欲しいです。コロナが終わったときに、しっかりと一歩を踏み出せるよう準備をして、これでいいやと諦めないで欲しい」

今年の高校生たちと同じように、野球が思うようにできない経験をしている平尾の言葉は、高校球児たちの心にもきっと響くだろう。

2012年、阪神の藤浪、西武の森らを擁して春夏連覇した大阪桐蔭。この豪華メンバーの中で難病を抱えながらも平尾は背番号11を背負った

「奇跡の本塁打」を打った1年生は「奇跡のバックホーム」に圧倒された

今年から日本通運の指揮をとる澤村幸明監督。

「『この打席で試合終了だろうな』と、どこか冷静だったので、初球から思いきり振りにいきました。一塁を回ったあたりでホームランと気づき、そこからはもう興奮とうれしさで何も覚えていないんです」

“起死回生の一発”を振り返るのは、社会人野球の強豪チーム・日本通運の澤村幸明監督だ。1996年夏の甲子園決勝、熊本工-松山商の一戦。1年生ながら6番レフトで出場していた熊本工の澤村監督は、9回裏2死から劇的な同点本塁打を放った。

もうおわかりだろう。この試合は松山商・矢野勝嗣の「奇跡のバックホーム」が生まれた伝説の一戦だ。“奇跡”は澤村監督の同点本塁打を皮切りに始まったといっても過言ではない。試合は澤村監督本塁打で延長戦にもつれこんだが、10回、“奇跡のバックホーム”により熊本工のサヨナラのチャンスを摘んだ松山商が6-3で勝利している。

「矢野さんはあのバックホーム直後の攻撃で、レフト前ヒットを打ちました。レフトを守る自分はその打球を捕れず、ヒットにしてしまいました。それは、あの好プレーに圧倒されて気持ちが上手く切り替えられなかったから。試合終了とともに、悔しさと申し訳なさで泣き崩れました」

勝っていたら、野球は続けなかった

 澤村監督は、高校卒業後は法政大、日本通運で野球を続ける。13年間社会人で遊撃手としてプレーし、一度たりとも都市対抗野球大会出場を逃さなかった。現役引退後は営業マンとして社業を経験し、今シーズンから監督として再び野球界に戻ってきた。

「良くも悪くも“あの澤村”と注目を浴びたことで、高校時代は『あのホームランより大きなことをしないといけない』と常にプレッシャーを感じていました。プロ入りを目指して大学、社会人と進みましたが、今度はプロを意識したことで、結果を求めすぎてバッティングがどんどん小さくなっていきました。

プロを諦めたとき、ようやくあの9回ツーアウトの打席に立ったときと同じ、思い切りのいいスイングができるようになったんです。

無我夢中で野球をやっていたあの頃の経験は今の監督業にも活かせています。選手たちには、とにかく最後の一球まで諦めないことの大切さを伝えています。

もし、松山商との激闘を制していたら? 野球を続けていなかったかもしれませんね」

悔しい思いを甲子園のグラウンドに残してきたからこそ、その後の野球人生の大きな原動力になったのだろう。

それぞれの思いがつまった夏の甲子園。

例年とは違う“新しい生活様式”下での交流試合が、8月10日に幕を開ける。

  • 取材・文豊島わかな

    1986年生まれ。日本野球連盟公式サポーター。『週刊ベースボールオンライン』にて「豊島わかなの都市対抗を夢見る男」連載中。ラジオ「JABAガールチャンネル」メインパーソナリティ(JFNパーク)も務める

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