佐賀北、駒苫…甲子園のヒーローたちを支えた「恩師のあの一言」

駒大苫小牧メガネの主将・本間篤史、佐賀北決勝満塁弾・副島浩史。2人を輝かせた言葉とは……

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逆転満塁弾を放ち、ガッツポーズする副島さん 写真:時事

「応援したくなるチームになれ」

夏の甲子園決勝で劇的な逆転満塁ホームランを放って頂点に上りつめた佐賀北の副島浩史さん。夢舞台で鮮烈な印象を残したヒーローの胸には、恩師が伝え続けた言葉が息づき、それは不可能と思っていた日本一をも実現へと導いた。

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2007年の夏の決勝戦。そのとき甲子園球場は、揺れていた。

広陵(広島)が4対0とリードして迎えた8回裏の佐賀北の攻撃前、副島浩史さんは異様な空間が出来上がりつつあることを感じ取っていた。

「スタンドからの声援が一段と大きくなって、ベンチでチームメイトに『応援の声、でかくない?』と話しかけたことを覚えています。かなり顔を近づけないと相手の声が聞こえないくらいでした。球場を埋め尽くした観衆の9割は、ウチを応援してくれていたんじゃないですかね。手拍子も、声援も本当にすごかった。それが大きな後押しになったのは間違いありません。

そのとき、百崎監督が目指していたチームに僕らはなれたのかな、と思えました」

当時の佐賀北の百崎敏克監督が常々、選手たちに掛けていた言葉がある。

「思わず知らず、応援したくなるようなチームになりなさい」

恩師の言葉を実感した帝京戦

「入学したころからずっと言われていました。『試合を見ていたら、人間の心理として絶対にどちらかを応援したくなる。そのとき応援したくなるようなチームになりなさい。そのためには全力疾走であったり、はつらつとしたプレー、楽しんでいる姿を見せなさい』と教わってきました」

監督が言いたいことはわかる。その通りに取り組んできた。だが、それがすぐに腑に落ちるほど高校生は成熟していない。副島さんも恩師の言葉を実感し始めたのは甲子園準々決勝の帝京戦からだったと振り返る。

「拍手が多くて、応援してくださる方がすごく増えました。全然、知らない方が『がんばれ』と言ってくれたり、僕らの勝利をすごく喜んでくださる姿を見て、『こういうことなんだな』、とわかってきました。

帝京はその大会で1番力があって、どの雑誌を見ても優勝候補筆頭。ベスト8の中でももっとも怖かった相手に勝てて、初めて優勝を意識しました」

県立校が強豪私学に挑む構図にファンが肩入れした部分もあっただろうが、佐賀北ナインのひたむきなプレーぶりは心を打つに値するものだった。観る者を引き込みながら「がばい旋風」は試合ごとに勢いを増し、決勝戦の土壇場を迎えたのだった。

「本塁打打ったらヒーローやな」

佐賀北は7回まで広陵のエース・野村祐輔(現・広島)からヒットを1本しか打てずにいたが、8回裏、1死から連打でチャンスを作る。野村の投じた球がボールになるたびにスタンドは沸き立った。フォアボールで満塁。さらに次打者に対してもカウント3ボール1ストライクとバッター有利のカウントになる。しかし、ネクストバッターズサークルにいた副島さんは仲間のヒットを願ってはいなかったと打ち明ける。

「『フォアボールでいいから、オレに回せ。おまえは絶対にバットを振るな』って思っていました(笑)。実際にそうなって押し出しで3点差。『オッシャ!ホームランを打ったら逆転やんけ。ヒーローだな』くらいの気持ちで打席に向かいました。『三振したらどうしよう』とか、そういう気持ちはなかった。完全なポジティブシンキング。すごい声援を背中に感じながら打席に入ったら、まわりの音がフッと消えて、“ゾーン”に入っていました。

初球を大振り気味に振ってファールになったので、左腕の使い方を意識し直しました。県大会で『ここさえきっちりしていればヒットや長打になる』というコツをつかんでいたんです。左腕を意識し直して振っただけ。そうしたらホームランになりました」

野球って、すごい

現在、佐賀県の唐津工業で監督を務める副島さんは、言葉が持つ力を今、改めて思い返している。

「帝京もそうですし、センバツで優勝した常葉菊川、夏は出てこられませんでしたが中田翔がいた大阪桐蔭など、全国クラスの強豪には勝てるわけがないと思っていました。

でも、百崎監督は違っていました。『俺の夢は全国制覇だから』ということを、いつも口にされていた。『なにを言っているんだろう。県立校が優勝できるわけがないじゃん』って内心では思っていたし、大会前、選手たちの最大の目標は甲子園で校歌を歌うことでした。

決勝の前も『0対10とか、恥ずかしい負け方だけはしたくないな』と思ったりもしたんですが、頭のどこかに監督の『全国制覇』という言葉が生きていて、無意識のうちにそこに向かって走り続けていたのかなとも思えるんです」

最近は「甲子園」という言葉を意識的に部員たちに使うようになったと話す。

「たとえば今なら、『甲子園ではこの暑い中で試合をしなければいけないんだよ』などと言います。甲子園という言葉があるだけでも、彼らのモチベーションが上がってくるんです。

今年はコロナで甲子園がなくなって『甲子園を目指してやれることが本当に幸せなんだ』と感じました。また、当時『甲子園を見て感動した』と言ってくれた方が多くいたことも思い出しました。今年も県の独自大会(各都道府県で開かれる代替大会)を見てくださった地域の方々から『感動しました』と差し入れをいただいたりもしました。野球って、やっぱりすごい。野球の力というものも再認識できました」

目指すのは言うまでもなく、「応援してもらえるチーム」として甲子園に行くことだ。

佐賀北優勝の瞬間。百崎監督が言い続けた言葉が結実した瞬間でもあった 写真:岡沢克郎/アフロ

メガネの主将を変えた1年前の一言

駒大苫小牧の4番キャプテンとして早実との死闘を演じた本間さん 写真:岡沢克郎/アフロ

2006年、夏3連覇をかけた駒大苫小牧と斎藤佑樹擁する早稲田実業による引き分け再試合を挟んだ“伝説の決勝戦”。

駒苫の「キャプテン・4番」としてチームを牽引したのが本間篤史さんだ。勝負強いバッティングと印象的な銀縁メガネはファンの印象に深い。

彼の甲子園での活躍は、「辛かった記憶しかない」という前年の甲子園決勝でかけられた一言なしにはありえなかった。

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駒大苫小牧が夏連覇の偉業を達成した2005年、本間さんは2年生ながら全試合で4番を任されていた。13対1で大勝した3回戦で4打点をあげるなど活躍したが、本人は接戦でのチャンスに打てず、高校3年間で1番苦しい期間だったと記憶している。

「ツラい思い出しか残っていません。『オレは何をやってるんだ』と自分を責め続け、『強いチームの4番は打って当たり前。もっと打たなきゃ』と焦っていました。

もともとメンタルは強くなくて、ちょっと打てなくなったら考えこんで、どんどん落ちていっちゃうんです」

準々決勝、準決勝でも思い描いたような活躍はできず、迎えた決勝。第一打席は得点圏にランナーがいたが凡退。二打席目は併殺打に倒れた。

「4番の自分が打てばもっと楽に勝てるのに――」

そう悩む本間さんに声を掛けたのは、茶木圭介部長(当時)だった。

「ここまで野球をやらせてくれた親や、いろいろな人に感謝して打席に立ってみろ」

その言葉によって、本間さんの未来が開いた。

「チームが勝てばOK」

「茶木さんは僕が人への感謝が足りないから言ったわけではなくて『そういう気持ちで打席に立てば結果も変わってくるぞ』ということで言ってくれたと思うんです。

それまであまりに自分のネガティブな思い込みに凝り固まって、視野や考え方が狭くなってしまっていました。

自分たちの代の新チームになってからは、『自分が、自分が』というのがなくなり、『チームが勝てばOK』という考え方になれました。振り返れば1、2年生のときはとにかく自分がホームランを打って目立つことばかり考えていました。それがチームで勝つためにとか、いろいろなことを考えらえるようになり、野球観も変わっていきました」

最後の夏は準優勝に終わったものの、前年よりも躍動して高校野球を終えることができた。

監督の言葉がなければ野球をやめていた

高校卒業後、本間さんは大学野球の強豪校・亜細亜大学に進学した。その際に駒苫の香田誉士史監督(当時)から言われた言葉も、本間さんの人生を支えるものとなった。

「大学はこっちからお願いして野球をやらせてもらえる場所だから、なにがあっても絶対にやめるな」

高校での輝かしい実績を考えれば、大学側も是非来てほしいという選手だったはずだが、そこは本間さんの性格をよく知る恩師ゆえの言葉だったようだ。

「僕は調子に乗りやすいところがあるので、『天狗になるなよ』という意味もあったと思います。実際、大学では高校で優勝したとかは関係なかった。全国からうまい選手が集まって、その競争に勝って初めて試合に出られるんです」

気持ちを引き締めて新しいスタートを切った本間さんは1年生の春季リーグの開幕戦からスタメン出場。ヒットも放ち、幸先よく滑り出した。しかし、秋に左手首を痛めて手術し、その後もケガに悩まされる日々を強いられた。

「1年生の秋にケガをして、そこから4年生の春までリーグ戦は出ていません。それどころか全体練習にすら入れず、リハビリの毎日。2年生、3年生時は幽霊部員という感じでしたね。

香田監督の言葉がなければ、たぶん野球部をやめていたでしょう。ツラかったです。でも、香田監督の言ったことが間違っていたことはないので、最後までやり通せました」

苦しい時期を乗り越えた本間さんは4年生の春季リーグで復活。その年のドラフトで巨人から1位指名される澤村拓一(中央大)から本塁打を放つなど活躍し、大学卒業後は社会人のJR北海道でプレー。一度、現役を退いたが、今はクラブチーム「TRANSYS」でコーチ兼任選手として復帰している。

2018年、夏100回大会では毎日、甲子園で活躍した元球児が登場する「レジェンド始球式」が行われた。そのメンバーに松井秀喜や桑田真澄とともに本間さんも選ばれた。

「本当に野球を途中でやめなくてよかったです。強い大学で野球を勉強させてもらえましたし、社会人野球でもプレーできた。やめていたら2018年の甲子園での『レジェンド始球式』も声がかからなかったと思います。

先日、北海道の独自大会(中止になった今夏の代替大会)の解説も声を掛けていただいたのですが、そういうことにもチャレンジしていきたい。また、北海道を野球で盛り上げたいです。チャンスがあるなら、いつか高校野球の指導者もやってみたいですね」

本間さんは夏の甲子園100回を記念して行われたレジェンド始球式の一員にも選ばれた 写真:時事
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