東京五輪で「立ち退き」を命じられた住民の、五輪なき夏の本音

「そりゃ、成功はしてほしいとおもうが…」

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五輪にほんろんされてきた人々

「東京五輪はやるからには、必ず国を挙げて成功させるべき。これは間違いない。ただ、我々への仕打ちに対する決定権があった人達にはこうも伝えたいんです。『あなた方の思いやりが足りなかったんだよ、だから天罰が下ったんだよ』と」

今年3月、東京五輪・パラリンピックの1年間の延期が正式に決定した。世界中で猛威を振るう新型コロナウイルスに収束の気配はいまだ見えない。来年7月23日の五輪開幕まで1年を切るなか、開催の可否を含む先行きは不透明だ。

そんななかで複雑な心境を明かすのは甚野公平さん(86)。甚野さんは、新国立競技場の隣に存在した都営住宅「霞ヶ丘アパート」の元住人でもある。同アパートは1964年の東京五輪の3年前に建てられ、2020年に予定されていた五輪を前に取り壊されている。五輪と命運をともにし、五輪に運命をほんろうされてきたアパートだ。

このアパート内で雑貨店「外苑マーケット」を営み、住民達の憩いの場を提供していたのがこの甚野さんだ。だが、20年五輪を前に200世帯以上の人々が退去を迫られるなか、甚野さんも立ち退きを余儀なくされ、霞ヶ丘の地と離別した。彼らは都からの退去費用として支払われたわずか17万円を手にし、複雑な想いで2度目となる東京五輪の動向を見守っている――。

「高齢者を追い出してまで五輪は開催しないといけないのか。五輪はそんなにエラいのか」

強制立ち退きから5年が経過した現在でも、同地区の元住民たちは都の対応に怒りを滲ませている。「私達は五輪を楽しめない」、多くの元住民はこう憤った。もっとも甚野さんの想いは少し異なる。

「立ち退き後、私は運よく自分の子供の家に住ませてもらうことができました。ただ、多くの仲間達は近隣のアパートで1人暮らしをするなど、孤独な余生を歩んでいるのが現状です。五輪のために地域とのつながりを失ってしまった寂しさ、つらさを経験し、それは現在進行系で続いている。既に決まってしまっている五輪開催は仕方がない。“ふるさと”での五輪は成功して欲しい。その反面、五輪のために犠牲になり、悲しんだ人達がいることも後世の方に知って頂きたいんです」

1933年に新宿区霞ケ丘町で生まれた甚野さんにとって、近接した明治神宮外苑競技場(旧国立競技場の前身)は幼い頃の遊び場だった。9人兄妹と大家族の甚野家に最初の転機が訪れたのが1945年。終戦後、福島への学童疎開から戻ると、甚野家は焼け野原となっていた。

その後すぐ近接に住居を構えるが、旧国立競技場の目の前にあったその家も、64年東京五輪決定に伴う施設建設のために取り壊しとなった。当時も約100世帯ほどが立ち退いており、実家で営んでいた雑貨商店もこの時に閉店している。甚野さんが述懐する。

「前の国立競技場も好きでしたが、子供の頃に遊んだ神宮外苑競技場が好きでね。今の姿からは想像もつかないでしょうが、当時は自然豊かで、小川で魚をとったり、野球をしたりしてね。帰りはわざわざ肉屋さんの前を通るんですが、当時は高価だったコロッケの匂いなんかも鮮明に覚えていますよ。 そんな風景が年を重ねても私の中で消えることはなかったんです」

妻や子供達と一緒に一度は西新宿へ移り住んだが、慣れ親しんだ霞ヶ丘の地に戻り、64年から立ち退きまでの50年以上「霞ヶ丘アパート」で生活してきた。「五輪を通して二度も住居を追われたのは私くらいですよ」、と甚野さんは自嘲気味に笑う。

今は亡き霞ヶ丘団地は、住民たちにとってどんな場所だったのか。甚野さんは「町ではなく村のような場所だった」という。

子供会や老人会で近隣住民が顔を合わせ、盆踊り、正月は餅つき、節分にお茶会と年中交流に恵まれた。アパートに住む約300世帯の住民ほぼ全員が知り合いだった、というのも大袈裟ではないのかもしれない。

都心に位置しながらも、牧歌的であり人の暖かさが残る稀有な場所でもあった。そんな霞ヶ丘の住民達に転機が訪れたのが2012年。町会を通して都から簡易な退去勧告用紙が届いたのだ。当時の様子をこう振り返る。

「もともとはラグビーW杯に伴う競技場の再開発で退去して欲しい、とA4一枚の紙で事務的な通知が来たことが始まりでした。ほとんどの住民は大反対で、都の職員に直談判したり、当時の舛添都知事に抗議文を送った。なかには訴訟に踏み切った人もいました。

その一枚の紙が来る前に都からは事前に説明もなく、私達の意思とは関係なく半ば強制的に退去は進められていきました。大きな力に必死に抗おうともしましたよ。私達からすれば生まれ故郷がなくなるわけですから、説明もなしに納得することはできません。64年の五輪の際は都もここまで粗雑ではなく、住民のその後の生活のことも考えてくれました。ところが20年の五輪では、事務的かつ強制的に立ち退きが進められていったんです」

住民たちは有志の会を立ち上げ、有識者を含めた署名を集めるなど反対活動をしてみせるが、決定は覆らなかった。16年に霞ヶ丘アパートはその歴史に幕を閉じた。

同地は五輪の後は公園になる予定だ。昨年秋には総整備費に約20億円をかけた「日本オリンピックミュージアム」も完成している。マンションのあった近隣には新国立競技場を一望できる超高級マンションの着工が進み、中国人など海外の富裕層達が既に購入しているという。甚野さんの原風景は、当時の面影がないほど急速に様変わりしていった。

霞ヶ丘の住人達の大半は、その後神宮前(渋谷区)や若松町、百人町(新宿区)、青山一丁目(港区)といった都営アパートへと移っている。高齢化が進み、単身での生活を余儀なくされている人が締める割合が圧倒的に多い。甚野さんは霞ヶ丘アパートの消滅後、新国立競技場が一望できるマンションへと移るが、妻との死別を期に子供との同居を始めている。

甚野さんは東京五輪開催決定が契機となり、新たに挑戦したことが2つある。一つは青山学院のイングリッシュスクールへ通い始めたことだ。10代は夜学で勉強した苦労人でもあり、改めて学生生活への憧れから語学を学び始めた。加えて五輪に訪れた外国人に道を聞かれた際に答えられるようになりたい、というところも動機となったという。今では外国人に日本、霞ヶ丘町の魅力も伝えたい、というまでに英語力は向上した。

もう一つは母校である四谷第六小学校でのボランティア活動だ。霞ヶ丘町アパートの住民達にとって、アパート消滅はかつてのような交流の場が無くなることも意味した。都が具体的な施策を用いることはなく、自ずと外部と接触する機会も減っていった。

そこで甚野さんが元住民にも声をかけ、子供達と一緒に縄跳びをしたり、戦争の経験などを伝えるなど学習支援ボランティアをスタートさせた。現在は新形コロナウイルスの影響で活動を自粛しているが、霞ヶ丘の住民にとっても精神的な拠り所となっている。

「学校に行きたくて、行きたくてどうしょうもなくてね。子供たちと接する時間というのが、今の私の生きがいになりました。実は今年に入り持病の腰痛が悪化して、手術を受けたんです。この年での手術は体に堪えることはわかっていたんですが、私としては万全の体で何とか東京五輪の顛末を見届けたい、という想いが強かった。

霞ヶ丘で生きた人々にもし0.01%だけ救いがあるとすれば、それば霞ヶ丘町という名前が残ったことです。五輪が成功しないことには、私達が慣れ親しんだ土地を奪われた意味がなくなってしまう。複雑ですが、今は無事五輪が開催され、素晴らしい大会になることを祈っています」

二度の東京五輪と甚野さんの切れない縁は、どのような形で幕引きを迎えるのだろうか。

  • 取材・文栗田シメイ

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