渡哲也さん秘話 撮影中の露天風呂に石原裕次郎が“飛び入り”の夜
芸能リポーター・石川敏男の芸能界”あの出来事のウラ側は……”⑯
<芸能リポーター・石川敏男の芸能界”あの出来事のウラ側は……”⑯>
銀座7丁目の旧電通通りを歩いていたら、後ろから“ポン”と尻を叩かれた。振り返ると笑顔の渡哲也さんが、数人の男性と歩いていた。
「元気!」
と、声を掛けられたが、その声にびっくり。渡さんは、数か月前に直腸がんの手術をして、退院したばかりだった。‘91年の暮れだったと思う。
その数年前、女性誌の記者として渡さんが出演していた『西部警察』(テレビ朝日系)の御殿場ロケを取材させていただいたことがあった。渡さんは、東京・浜松町の貿易センタービルの屋上からヘリコプターで、御殿場のロケ現場に向かう。
オレとカメラマンは、中央高速道路で御殿場方面へ。超人気ドラマだった「西部警察」は、約5年間の撮影でロケ地4500か所。封鎖した道路4万500か所。爆破させた自動車車両は約5000台に、飛ばしたヘリコプター600台。壊した家屋、ビルは320軒に、使用した火薬の量4.8トン。使用したガソリン約1万2000リットルだという。全238話で、負傷者は数人出したものの死者はゼロ。あれだけ激しい爆破シーンは、ほかのドラマでは見ることができなかったぐらいすごかった。
自動車会社、鉄道会社、飛行機会社、大手スーパーなども番組に協力して出来上がっていた。もちろん、石原裕次郎さんの兄で衆議院議員の石原慎太郎さんの協力も大きかったし、渡さんだからできたドラマだった。
このシリーズだけで、石原プロには30億円を超える資金が残った……とも言われている。
話がそれたが、渡さんの密着取材では、その壮烈なロケシーンも見せていただいた。そして、その晩は宿泊する山梨・石和温泉で露天風呂での撮影も。露天風呂に入っていただいての撮影中に、忘れられない出来事が起こる。
裕次郎さんがタオル一つで入ってきて、
「テツ一人じゃ、グラビアにならないよな」
と言って、笑いながら露天風呂にきたのだ。オレたちもびっくりして
「まずいですよ」
と言ったら、
「俺いらないの?」
と言った裕次郎さん。石原軍団の結束の凄さを感じたし、渡さんは裕次郎さんに愛されていると感じた瞬間でもあった。
考えたら凄いシーン。大スターが、露天風呂に一緒にいると言う映画の現場でも見られないショットだ。
その晩は、石原プロ恒例のスタッフのお疲れ会。ロケ後のスタッフとの宴会は日常茶飯事だったようだ。
渡さんは‘64年に日活に入社。「暴れ騎士道」で銀幕デビュー。日活時代は、第二の裕次郎として吉永小百合さんとの共演もあったが、日活が「ロマンポルノ路線」に変わった時に、尊敬する裕次郎さんの石原プロに移籍する。
東映を含め各社の争奪戦もあったが、渡さんは裕次郎さんを選んだ。当時の石原プロは莫大な借金を抱え、倒産寸前だったのにだ。
それから50年以上、裕次郎さんが肝細胞癌で亡くなった後も社長を引き継ぎ、石原プロの存続のために頑張ってきた。その渡さんが肺炎のために亡くなったのだ。
振り返れば、渡さんの俳優生活は病気との戦いでもあった――。
大河ドラマ撮影中に肋膜炎にかかり途中降板。急性肝機能不全も併発し9か月以上も入院した。‘15年には心筋梗塞で入院したこともあった。
裕次郎さんの23回忌(‘09年)を過ぎたころには、自らの健康上の問題と社長在籍期間が裕次郎さんと同じ24年目を迎えたことで、
「裕次郎さんの記録を超えるわけにはいかない」
と、社長を辞任。ご自身は体力の限界を感じていたのかもしれない。
‘17年には相談役兼取締役として経営に復帰したが、今年7月には来年1月いっぱいで石原プロを解散することを発表していた。温厚で、責任感が強く、約束を守り、規律の正しかった渡さんは、目の黒いうちに石原プロを“解散”したかったんだろうな。
すべてを発表した渡さんはきっと、ほっとしたんだろう。今頃は、裕次郎さんを探しながら、‘17年に72歳で亡くなった芸能界一”腕っぷし”が強かった弟・渡瀬恒彦さんと40年ぶりに共演したドラマ『帰郷』、そして、その2年後に渡さんがゲスト出演した『十津川警部』の話で盛り上がっているのかな。
ご冥福をお祈りいたします――。
:石川敏男(芸能レポーター)
‘46年生まれ、東京都出身。松竹宣伝部→女性誌記者→芸能レポーターという異色の経歴の持ち主。『ザ・ワイド』『情報ライブ ミヤネ屋』(ともに日本テレビ系)などで活躍後、現在は『めんたいワイド』(福岡放送)、『す・またん』(読売テレビ)、ラジオは福井放送、ラジオ関西、レインボータウンFMにレギュラー出演中
写真:アフロ