フライデーが撮っていた「不屈の男」渡哲也の素顔

【追悼企画】惜しまれながら師・石原裕次郎のもとに旅立ったスター俳優の秘話を公開

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「私は、渡さんが20年ぶりに映画に本格復帰した作品で、監督を務めました。当時はがん闘病後で、まだまだ身体に負担をかけてはいけない状態でした。そのため、渡さんの収録は1ヵ月半の撮影期間のうちの5日間のみ、しかも朝8時からの4時間だけだったんです。

滞りなく撮影を始められるように、渡さんのシーン撮影前日は、毎回深夜まで代役を立ててリハーサルを重ねたのを覚えています。シーンを撮り終わると、渡さんは気さくにこう言うんです。『午後もやろうよ、監督! 俺、大丈夫だよ』って」

’96年、本誌は、東映京都撮影所で『わが心の銀河鉄道 宮沢賢治物語』を収録中だった渡さんに密着。甘党だった渡さんは、撮影の合間に美味しそうにアイスクリームを頬張った 撮影:菊地弘一

8月10日に肺炎のため亡くなった渡哲也さん(享年78)。’96年に公開された『わが心の銀河鉄道宮沢賢治物語』の監督を務めた大森一樹氏(68)は当時をそう語る。

「撮影現場はいつも和(なご)やかでしたよ。リハーサルで代役を務めていた俳優には、『お前が俺をやったんだってな。おー、いいじゃないか』と声をかけたりして。スターの風格がありつつも、決して強情ではなく、監督を立ててくれる俳優でした」(大森氏)

1枚目写真と同じ本密着取材中に、楽屋でタバコをくゆらせる渡哲也。楽屋には多くの共演者が集まった

渡さんの代表作だったドラマシリーズ『西部警察』で兼子仁(かねこじん)刑事役を務めた五代高之氏(64)はこう回想する。

「私にとって、渡さんは“親分”でした。撮影で一番長い時間を共に過ごしたのが渡さんで、俳優としての心構えを一から教えてもらいました。10階建てのビルの間を飛び移るというシーンがあったんです。本当に怖かったのですが、こんな時、いつも先陣を切るのは渡さんだった。

当時は命がけだった撮影も親分との信頼関係があったから乗り越えられたのだと思います。休憩の時、私がボロボロの靴を履いているのを見て、『お前、靴大丈夫か? サイズが合うなら俺の靴やるぞ』と自分の足下を指しながら声を掛けてくれたんです。翌日、ピカピカに磨き直したショートブーツを持ってきてくれました。今でも、私の宝物です」

熱い男の役柄を数多く演じた渡さんには、紳士的な一面もあった。ドラマ『麻酔』で夫婦役を演じた女優の高橋惠子氏(65)は渡さんとの秘話をこう明かす。

「亡くなる数日前、家の片づけをしていたら、渡さんから誕生日プレゼントでいただいたブラウンのバッグが目に留まったんです。その時、撮影現場で照れくさそうな笑顔を浮かべて手渡してくれたのを思い出しました。きっと渡さんがお別れを知らせてくれたんでしょうね」

渡さんに大きな影響を与えたのが師と慕う石原裕次郎さんだった。’87年に裕次郎さんが急逝した際、渡さんは石原プロモーションの社長の座を引き継ぎ、裕次郎さんの志を絶やすまいと誓った。

左から石原裕次郎、小林旭、渡哲也。日活が生んだスター3人が古巣の調布撮影所で顔を揃えた

「裕次郎さんが亡くなられてから、石原プロモーションを引き継ぎ、闘病中でも皆さんを引っ張っていく渡さんの姿を素晴らしいな、と応援していました。スターと呼ばれた方がまた一人亡くなられて、一つの時代に区切りが付いたという感じがしますね」(高橋氏)

長年、石原プロを共に支えた舘ひろし(70)と。ドラマ共演の際に酒を酌み交わすシーン

裕次郎さんの34年目の命日だった今年7月17日、石原プロは’21年での解散を発表していた。

後輩たちより一足先に天国で裕次郎さんと再会を果たした渡さんは、きっと酒を酌み交わしながら思い出話に花を咲かせていることだろう。

’96年、神戸で行われた阪神淡路大震災の復興イベントに弟である渡瀬恒彦(享年72)と登壇した
’71年、婚約を発表した際の俊子夫人とのツーショット。夫人は長年、渡さんの闘病生活を支えた

『FRIDAY』2020年9月4日号より

  • 撮影菊地弘一(3点)

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