全盲のヨットマン・岩本光弘が語る「挑戦を続けられたわけ」 | FRIDAYデジタル

全盲のヨットマン・岩本光弘が語る「挑戦を続けられたわけ」

世界初!全盲ヨットマンによる無寄港太平洋横断達成 植村直己冒険賞受賞

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「’13年に辛坊治郎さんと挑戦した時に比べ、今回の太平洋は、航海中を通じて波と風が強いことが多く、海は荒れていました。けれど、前回の失敗と反省を踏まえ、練習を積んできたので、なんとか乗り切ることができたのだと思います。何より、パートナーのダグの存在が大きかったですね。

彼はセーリングに関してはまだ素人同然でしたが、私の目となってくれました。彼が海を見てくれたおかげで、私はヨットを操舵することができましたから。今回の成功はダグがいてくれたおかげです」

航行中のドリーム・ウィーバー号。「船名には応援の一本一本が糸となり、夢を織るという意味を込めました」
航行中のドリーム・ウィーバー号。「船名には応援の一本一本が糸となり、夢を織るという意味を込めました」

7月25日に植村直己冒険賞を受賞した「全盲のヨットマン」こと岩本光弘氏(53)は、本誌の取材にこう声をはずませた。岩本氏はアメリカ人実業家のダグラス・スミス氏(56)と共にアメリカ西海岸のサンディエゴから福島県小名浜港まで太平洋を55日間で横断。全長12mの「ドリーム・ウィーバー号」で2人が航海した距離は実に1万3000㎞にも及んだ。岩本氏は世界初のブラインドセーリング無寄港太平洋横断を成し遂げ、その功績に対して、賞が贈られたのだ。岩本氏は続ける。

岩本氏は熊本県天草市出身。13歳から進行した先天性視覚障害のため16歳で全盲に。’19年の春に、太平洋横断に成功した
岩本氏は熊本県天草市出身。13歳から進行した先天性視覚障害のため16歳で全盲に。’19年の春に、太平洋横断に成功した

「ダグとは2年前に知人の紹介で出会ったのですが、会ったその日に『君は面白い! 僕と一緒に太平洋横断をやらないか』と言ってきたんです。私が全盲ということを気にかけず、一人の人間として、私のこれまでの人生と挑戦の話を聞いて、そう言ってくれました。嬉しかったですよ、その時は。他にも声をかけてくれた方が何人かいましたが、ダグは即決でしたから。私もすぐに再挑戦はダグと、と決めました。

風速25mを超えることもあった今回の太平洋航海。左は相棒のダグラス・スミス氏
風速25mを超えることもあった今回の太平洋航海。左は相棒のダグラス・スミス氏

ダグはコンピュータービジネスの成功者でもあったので、資金的にかなり援助してくれました。彼は東京で資産運用を手がけ、私はサンディエゴで鍼灸(しんきゅう)師をして生計を立てているのですが、彼は練習の度にアメリカまで来てくれるなど、凄まじい情熱で今回の挑戦に打ち込んだんです。ダグは上手くいかないとカッとなることがあったので、彼の機嫌を取るのは船上での大事な仕事でした(笑)」

航海では、ゴール直前の日本海で潮流の影響により沖に押し戻されたり、さまざまな難局に直面しながら、ついに目的地の小名浜港に到着した。

冒険と同様、岩本氏の人生もまた決して順風満帆ではなかった。岩本氏が名前を知られるようになったのは、皮肉にもニュースキャスターの辛坊治郎氏(64)と挑戦した航海の失敗によってだった。

「’13年の挑戦では、出航してから6日目にクジラと衝突し、船が沈没しました。太平洋のど真ん中で10時間近く遭難したんです。沈没したのが朝で、1200㎞沖という飛行艇が救助に来られる最長距離ギリギリだったことなど、偶然が重なり、なんとか生きて帰ることができました。

しかし、救助後に待ち受けていたのは世間からの冷ややかな視線と、バッシングの声でした。『全盲なのに、なんでそんな挑戦をしたんだ』とかですね……。失敗した後は、クジラが憎かったし、家から出られなくなるほど海がトラウマになりました」

’13年の太平洋横断では、事故により船が沈没。海上自衛隊に救助され、厚木基地到着後、2人は報道陣に対し頭を下げた 写真:朝日新聞社
’13年の太平洋横断では、事故により船が沈没。海上自衛隊に救助され、厚木基地到着後、2人は報道陣に対し頭を下げた 写真:朝日新聞社

先天性弱視だった岩本氏は、16歳で全盲となった時に自殺未遂を図りもした。

「全盲になった時は、日常生活のほとんどが介助なしに送れなくなり、自分の無力さに絶望しました。いっそ橋から飛び降り死んでしまおうかと思いつめました。

でも、そんな時、伯父がかけてくれた、『お前の目が見えなくなったことには意味がある。逃げるな』という言葉が頭の中に浮かんだんです。まずは逃げることをやめ、自分にしかできないことを始めようと思いました」

高校は鍼灸科に進学、大学では教員を目指した。22歳の時、米国に留学し、英語を習得。帰国後は、教員をする傍ら、英会話教室に通った。そこで講師をしていた1歳年下のアメリカ人、キャレンさんと出会い、後に結婚。キャレンさんは岩本氏に趣味だったヨットを紹介し、太平洋横断への端緒を作ったのだった。

「16歳の時の自殺未遂、’13年の失敗で折れなかったからこそ、今回の成功に繋がったのだと思います。失敗した分、今度こそはと、懸ける思いもひとしおでした。今では、あの時のクジラにも感謝しています。クジラは私にとっては絶望と失敗の象徴です。けれど、盲目になったことと同様に、衝突したことにも意味があったんだと思うんですよね。

私が冒険を通じて、皆に伝えたいのは、人生を諦めないでほしい、ということです。私にとってのクジラは今、多くの方にとってはコロナであるかもしれませんし、SNSでの誹謗中傷かもしれません。でも、どんなに絶望を感じても生きてさえいれば、前さえ向いていれば、いつかきっと報われます」

岩本氏は航海中、太平洋に夕陽が浮かぶと、しばしば涙を流したという。その理由についてこう振り返る。

「ある日、夕陽が海に浮かんだ時、私は自然と涙を流しました。それを見られない悲しさでも、昔は見えたのにという悔しさでもありません。ただ、その夕陽の温かみを背中に感じて、『生きてて良かった!』と思えたのです。海の上では何一つ当たり前ではありません。生きていることさえもです。だから、自分は生かされているのだと、何事にも感謝したいと思えるのです」

“ありがとう”を広めたい

授賞式を終えて、現在は全国での講演活動を行っている岩本氏。今後の活動についてこう語る。

「冒険はひとまずお休みですかね。今は“ありがとうを世界に”をテーマに活動する『Global Arigato Project Japan』に力を入れています。ありがとうは“有り難い”ということです。自殺未遂から立ち直ったことも、遭難し救助されたことも、今思えば有り難いことです。今、自分がここにいることが奇跡だということを、この活動を通じて伝えていこうと思っています。単なる“Thank You”ではない言霊(ことだま)としての“ありがとう”を世界中の人々に知ってもらいたいのです」

’19年4月20日の朝、ゴールの小名浜港に到着した岩本氏とダグ。2人は誇らしげにシャンパンで祝杯をあげた
’19年4月20日の朝、ゴールの小名浜港に到着した岩本氏とダグ。2人は誇らしげにシャンパンで祝杯をあげた

岩本氏が挑戦したのは太平洋横断だけではない。ブラインドセーリングとの両輪で、力を入れている競技がある。

「’13年の海でのトラウマを克服するために始めたのがトライアスロンでした。友達から声をかけてもらったのがきっかけです。最初は怖くて、25mも泳げませんでしたが、トレーニングを積み、着実に距離を伸ばしていきました。計226㎞を走破するフルアイアンマンレースにも挑戦し、完走しています」 

ヨットにトライアスロン、岩本氏の冒険はまだまだ続いていくことだろう。

『FRIDAY』2020年9月11日号より

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