美空ひばりさんが母と弟を立て続けに亡くして増えた「酒の量」

芸能リポーター・石川敏男の芸能界”あの出来事のウラ側は……”⑲

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来年6月に33回忌を迎える美空ひばりさん(‘87年)

<芸能リポーター・石川敏男の芸能界”あの出来事のウラ側は……”(18)>

 

「連絡取れなくて困ってたんですよ」

早朝5時過ぎに、番組スタッフからオレが泊まっていた山梨県・石和温泉の旅館に連絡が入った。

「すぐにテレビをつけてください」

と言う。テレビからは美空ひばりさんが亡くなったことが伝えられていた。

‘89年6月24日午前0時28分に亡くなったひばりさん。享年52だった。

オレは、番組スタッフ約10人と、友人ら30人で翌日のゴルフコンペのための宿泊。当然早く寝てしまっていた。

0時を過ぎると従業員が帰宅してしまうぐらい小さな旅館。守衛室みたいなところしか連絡はとれない。

携帯電話は持っていたが、つながる範囲ではなかった。連絡が取れたのが、朝5時に従業員が出勤してからだったのだ。

来る予定になっていたスタッフが急遽キャンセルしていて、彼だけがオレらの行動を知っていた。

「一晩中連絡しましたよ」

とスタッフに言われた。まさにリポーターになって一番と言っていい大失敗だ。

ひばりさんは、11歳で歌手デビュー。「東京キッド」「悲しき口笛」「柔」「川の流れのように」など数々の大ヒット曲を持ち、発売した曲は500曲を越える。戦後の歌謡界をけん引してきた天才で不出世の大スターだ。

その死を知らなかったでは済まされない。亡くなる約12時間前の23日。金曜日の午後、オレは、東京・お茶の水にある順天堂大学病院の前にいた。

ひばりさんが入院している病院の前からの生中継。口の堅い看護師さんや関係者など病院中を取材して、限られた親しい人だけが見舞に来ていることは分かったし、まだまだ入院生活が続きそうだという感触を持った。

中継も無事に終了して、土、日は休み。浮かれた気持ちで温泉地にいたのだ。

ひばりさんの病気もずっと取材してきていた。ひばりさんの病気との戦いは、‘87年4月からだった。

数年前から腰の痛みを訴えていて「左右大腿骨骨頭壊死」という病気。東京・明治座の1か月公演が中止になった。

‘81年に二人三脚で芸能界を歩いてきた実母・喜美枝さんが亡くなり、溺愛した二人の弟も‘83年、‘84年と相次いで亡くし、酒量が増えていたことも大きな原因だったらしい。

50歳の誕生日を病院のベッドで過ごしたひばりさん。一時は、カムバックも危ぶまれる状況だったが、京都のステージで復帰。養子として迎えていた加藤和也さんの晩張りも大きかった。

そして、‘88年4月に完成したばかりの東京ドームで不死鳥のようによみがえるのだ。

復活コンサートの大成功。でも、その裏では、楽屋に主治医、看護師を待機させ、ベッドまで持ち込んでのコンサートだった。

「胸が苦しい」

と訴えるようになるが、歌への情熱は落ちることはなかった。

‘89年2月から、福岡を皮切りに全国28か所のツアーをスタートさせたたが、このツアーも福岡・小倉公演の1回だけのステージになってしまった。2日後には、東京に戻って再入院。4月の横浜アリーナ公演も含めて、すべての公演がキャンセルされた。

この頃から、マスコミの間では、重病説が流れ始めたのだ。

で、ひばりさんの訃報を知ったオレは、スタッフを連れて局に戻ることした。しかし、「ひばりさん逝去特番」はすべての準備が済んでいて、オレたちの入る余地はなかった。

中継リポーターもスタッフもスタジオ出演者も。冷たい視線の中、中継現場にも行けない。

手伝いをしようにも準備していたスタッフと歯車がかみ合わなかった。辛かった時間。生放送をスタッフルームで見ながら後悔したのは芸能担当のスタッフも同じだった。

あれから31年。ひばりさんの曲を聞くと、あの日のことを思い出してしまう。来年はひばりさんの33回忌だ。

  • 石川敏男(芸能レポーター)

    ‘46年生まれ、東京都出身。松竹宣伝部→女性誌記者→芸能レポーターという異色の経歴の持ち主。『ザ・ワイド』『情報ライブ ミヤネ屋』(ともに日本テレビ系)などで活躍後、現在は『めんたいワイド』(福岡放送)、『す・またん』(読売テレビ)、ラジオは福井放送、ラジオ関西、レインボータウンFMにレギュラー出演中

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