1995年スタート、お笑い界の歴史を変えた「あるライブ」の話
今をときめくお笑い芸人が、まだ駆け出しだった頃のこと!
お笑い芸人を職業とする人達は今テレビをはじめとしたあらゆるメディアで大活躍している。ネタ番組やバラエティはもちろんのこと、情報番組、報道番組の司会も難なくこなし、ラジオでもテレビでは見せないリアルなトークがうけている。
そういったことがあたりまえの日本の風景となっている現在より昔の25年前、今は絶好調の芸人さんたちが駆け出しの頃のお笑い界で1995年9月、〈あるもの〉が産声をあげました。その始動したものとはなんだったでしょうか。
『ボキャブラ天国』の「キャブラー」と答えた人が多いかもしれないが、近いけど不正解。フジテレビ系『タモリのSUPERボキャブラ天国』内に、若手芸人たちがボキャブラ作品(ま、駄洒落だ)を次々と披露するVTRのコーナー「ボキャブラ発表会 ザ・ヒットパレード」がスタートしたのは94年10月のことである。
「テレビ朝日系『GAHAHA王国』終了」と答えた人、まさしくそれは95年9月のことだが「始動したものは?」つってるでしょうが。確かに『ボキャブラ』の総合演出の一言「今、テレ朝の夜中に出てる活きのいい若手集めて何か新しいことやろう」で始まったのが「ヒットパレード」だ。
この「始動したもの」は現在も続いており2ヵ月に一度…とまで明かすとお判りだろうか。それは『タイタンライブ』である。芸能事務所「タイタン」が主催するこのお笑いライブは95年9月15日に「ゼロ号」としてスタートした。ここまでに記した番組(コーナー)とライブにすべて出演しているのが爆笑問題、私もすべてに構成者として関わっている。
この「ゼロ号」の会場は、浅草5656会館(325席)。タイタンメンバーとゲストの皆さんの持ちネタとタイタンメンバーによる「三題噺」のコンテストなどを披露した。ゲストはプリンプリン、ノンキーズの皆さん。
始まるまでは正直なところ「大丈夫だろうか」と少し思っていたが、蓋を開けるとお客さんは、よく笑って下さって大成功だった。タイタンの、さらに関東の若手お笑いの輝く未来がさあ回り始めたと「浅草おかみさん会」の提灯がずらりと発光する下で興奮したものだった。ちなみにこのライブにはまだ二十歳になったかならないかくらいの劇団ひとりと有吉弘行が観にきていたという。
今なぜわざわざ「関東の若手お笑いの~」としたかというと、当時の東京はラ・ママ新人コント大会や東京ギャグコレクションや事務所主催のライブはどれもそれぞれに盛り上がりを見せていたが、みんなでひとかたまりになってテレビやラジオで中央を目指すという雰囲気が弱かった。吉本興業の皆さんと比べて。はっきり言うと。
しかし私はこの「ゼロ号」の爆笑問題を見て「ああ、これからはタイタンだけでなく他事務所さんの芸人たちも爆笑問題という中心核の周りにどんどん集まって一枚岩になっていくんじゃないか」と予感したからなのだ。
それは前述の「ヒットパレード」での「キャブラー」、爆笑問題をはじめ、フォークダンスDE成子坂、海砂利水魚、ネプチューン、BOOMER、金谷ヒデユキやみんなのネタのクオリティがどんどん高まってきていることを同時に実感していたことにもよる。みなさん後の『タイタンライブ』には出て頂いている。
『タイタンライブ』は会場を銀座のSOMIDOホールに移し翌年2月に「第一回」を迎え、以降2ヵ月に一度開かれていく(2020年4月のみ、お休み)。06年からは会場は東銀座の時事通信ホールとなり、09年からはライブの模様を全国の映画館で同時中継する『爆笑問題withタイタンシネマライブ』も始まり現在に至る。
私の『タイタンライブ』での仕事といえば、「選曲」である(この話は『~シネマライブ』では別の曲が流れているので伝わらなくて申し訳ない)。「客入れ」は毎回変えていて、最近観た映画で「いい曲たくさんあったなあ」と思った作品のサントラ、夏は山下達郎さんの『Big wave』、12月はビーチボーイズの『クリスマスアルバム』などなど。
「オープニング」は実にこれが「ゼロ号」からずーっと変わらずに、スティーブ・マックイーン主演『ブリット」』のメインテーマ。作曲はラロ・シフリン、『燃えよドラゴン』や『スパイ大作戦』(つまり『ミッション・インポッシブル』)で有名な人の名曲。
「出演者の登場曲」は、タイタンメンバーは固定で爆笑問題は『ブリット』のサントラから、もうすぐカーチェイスが始まるという場面での曲、ウエストランドは『ダーティハリー2』、日本エレキテル連合は、近田春夫とビブラトーンズの『恋の晩だな』のイントロをエクステンドしてボーカルが始まらないもの。ゲストでは松村邦洋さんに『アウトレイジ』、ナイツに塙さんの好きな細野晴臣さんのインストもの、と合わせて選んだり、雰囲気で『シャフト』『フランティック』など単純に好きなサントラなどである。
もう一度1995年9月の5656会館に思いを馳せると、実はもう一つここが起点となっているものがあった。楽屋にTBSラジオの浦口直樹さんと牧巌さんがいらして「爆笑問題の、これから始まるレギュラー番組の構成をやってみませんか」と仰ったのだ。この番組が「ゼロ号」となって現在の『火曜JUNK爆笑問題カーボーイ』に続いているのだった。
- 文:高橋洋二
- 写真:アフロ