五輪延期でユニフォームを脱ぐ決意 バレーボール女子・新鍋理沙
【短期集中連載】長すぎた1年/運命の3月24日 東京五輪延期でユニフォームを脱ぐ決意をした日本代表選手たちの本音
なぜ、今なのか。
6月20日、女子バレーボール日本代表の新鍋(しんなべ)理沙(30・久光製薬)が引退を発表したとき、多くの関係者がそう驚いた。
「友だちとかも連絡をくれたんですけど、何で今なの? って。いろいろな思いを話したら、みんな最後はお疲れ様って言ってくれましたけど」
新鍋は身長173㎝と小柄だが、代表きってのサーブレシーブのスペシャリストだった。つまり、日本で最も守備がうまい。
’12年のロンドン五輪では安定した守備で、28年振りのメダルとなる銅メダル獲得に貢献した。’16年のリオ五輪は故障で代表を辞退したものの、東京五輪においても、依然として貴重な元メダリストであり、余人を以って代えがたいプレーヤーだと考えられていた。
そんな新鍋の前途に暗雲が垂れ込めたのは2月の代表合宿のときだった。古傷を抱えていた右手人差し指が今までにないほど激しく痛んだ。
「トスするのも痛かったので、練習にもあまり入れませんでした。親指側の靭帯(じんたい)が伸びていたのと、中指側の骨が疲労骨折みたいな感じになっていたんです」
代表枠は12人。焦りが募った。
「新しいメンバーも入ってきていたし、代表に残れるかどうかもわからない。もう時間もなかったので、不安はありました。チームドクターに相談して、痛みがどうしようもなかったら注射を打ってやるしかないという話もしていました」
そんな中、世界では新型コロナの感染が急拡大していた。人の移動が制限され、あらゆるイベントが中止に追い込まれる。スポーツも未知のウイルスに飲み込まれた。3月にアメリカで予定されていた代表合宿は中止となり、24日には東京五輪の1年延期が決定した。
7月に30歳を迎えた新鍋は、東京五輪をバレーボール人生のゴールに設定していた。リオ五輪が終わったとき、「あと4年」で完全燃焼できるよう逆算しながら心身を削れるところまで削ってきた。1年延期の宣告は、ドラマで言えば、「つづき」ではなく「おわり」だった。
「絶望的な気持ちになりましたね」
ただ、その猶予は好機でもあった。右手人指し指の靭帯を縮める手術を受けることを決め、万全の態勢で1年後に臨もうと考えを改めた。ところが結果的にはこの決断が引退の引き金となった。
ボールに触るのが怖い
4月23日に手術を受け、約1ヵ月後、医師からボールに触ってもいいという許可を得た。しかし、触れなかった。
「怖いな、って。ボールを触るのが怖いと思ったことがショックで、それから、いろんなことが不安に思えてきてしまったんです」
故障していたのは右手人差し指だけではなかった。ここ数年は股関節を痛め、月1回の注射が欠かせなかった。
「身体の調子のよくない日が増えて、オリンピックまでの1年間、納得できるプレーをしている自分を想像することができなかった。手術も初めてだったし、そもそもこの指は元通りになるのかな、と。いろいろな不安が重なって、1年っていう期間がものすごく長く感じられてしまいました」
新鍋が引退を決断したのは、手術からおよそ2ヵ月後のことだった。
小学校1年生のときから24年間、一途に打ち込んできたバレーボールの存在を新鍋はこう語る。
「私、けっこう飽きっぽいんです。でも唯一、バレーボールだけは続けてこられた。何回も辞めたいなと思いながらここまで続けてこられたっていうことは、やっぱり好きだったんだなと思います」
もちろん、その思いが冷めたわけではない。
「今も好きですけど、好きなだけじゃ……。別に、やっていて楽しいからやっているわけでもないんです。楽しいというのも、ちょっと表現が違うと思うし。Vリーグもそうですけど、オリンピックになれば、もっと結果が求められる。モチベーションも、パフォーマンスも、最高のものが必要になってくる。相当な覚悟を持ってやらなきゃいけないので、少しでも不安があっちゃいけないと思うんです。中途半端はいちばんイヤ。なのでスパッと辞めました」
五輪という舞台の重さと難しさ。それを体が覚えていた。だから心身が前進することを拒否したのだ。
所属チームの久光製薬の元総監督であり、日本代表チームの監督でもある中田久美には、事後承諾の形となった。
「決めるのは自分だと思っていたので、誰かに相談しようとも思わなかった。こういう時期なので、電話で報告させていただきました」
中田も驚いたに違いないが「いろいろなことが重なってしまったのだと思う」と理解を示した。
引退会見のとき、敬愛する中田から具体的にどんな言葉をかけられたのかと聞かれると、新鍋は「秘密です」と答えた。今もまだ秘密なのかと問うと、にっこりと笑いながら言った。
「はい。私がいただいた言葉なので」
鹿児島生まれの頑固者
引退を発表してからというもの、心のどこかにずっと「もやもや」としたものが残っていたという。
「今辞めるのは、どうなのかなという思いもあった。辞めてから、もうちょっとやればよかったな……とか思うかなと思っていたんです。けれど、今のところそれはない。自分の中では、やっぱり決まっていたことなのかなと思います」
今後は久光製薬のバレーボール事業をマネジメントする会社「SAGA久光スプリングス」に残り、バレーボールの発展、普及をサポートするつもりだ。
来年、東京五輪が開催されたとして、代表の試合を素直に応援できるものなのかと問うと、こう即答した。
「応援したいです! 観客席から観たことがないので客席から観たいですね」
だが、後進の指導にあたるつもりはあるかと尋ねると今度は言下に否定した。
「できる気がしません!」
しかし、守備のエキスパートとして、恩師の中田から請われることも十分考えられる。
「そのときは(指導者になるために)猛勉強します。それがバレーボール界のためになるのなら」
新鍋はインタビュー中、延びた1年について、何度も「私にとっては長い」と話した。理由は言葉にし切れずにいたが、それが嘘偽りのない心の声であることは伝わってきた。
それにしても、なぜ、今――。
インタビューの終わりに小さくなったものの最後まで残っていたその疑問をもう一度だけ、ぶつけた。
――結論出すの、早くなかったですか?
「早くないと思います」
新鍋は鹿児島生まれだ。鹿児島生まれの女性は大らかな反面、芯が強いと言われる。新鍋も自分をこう分析する。
「私、頑固なので。決めたら」
『FRIDAY』2020年10月9日号より
- 取材・文:中村計(ノンフィクションライター)
- 写真:アフロ
ノンフィクションライター
1973年、千葉県生まれ。同志社大学法学部を卒業。スポーツ紙を7ヵ月で退社し、独立。『甲子園が割れた日 松井秀喜の5連続敬遠の真実』(新潮社)で第18回ミズノスポーツライター賞最優秀賞、『勝ち過ぎた監督 駒大苫小牧 幻の三連覇』(集英社)で第39回講談社ノンフィクション賞を受賞。スポーツに関する著書が多いが、”お笑い”に関する著書もある