ラグビーW杯の松島、福岡より強烈だった男の「壮絶人生」
引退危機から日野レッドドルフィンズで再起を図る竹中祥の告白
昨年のラグビーワールドカップ(W杯)日本大会では5トライをあげた松島幸太朗、4トライをあげた福岡堅樹が史上初のベスト8入りをけん引した。その陰で、彼らと同じ学年の1992年に生まれ、彼らより早く日本代表に呼ばれ、多くのラグビー関係者から活躍を期待されながら、引退危機に直面した男がいる。
竹中祥。桐蔭学園時代に松島とともに高校日本一に輝いたが、この4月に所属先から戦力外通告を受けた。引退危機に陥りながら、友人に救われ、新天地を見つけた今、感じていることは……
国際試合で80m独走トライを奪った
「僕らは黄金世代どころか、プラチナ世代と言われていました。だけど、いまのラグビー界を見ていると僕らの世代は多くありません。周りから見た『この世代が強いか』と関係なく、その人自身が自分のなかでいいラグビー人生だと結論付けられればいいのだと思います」
同じ年の松島、福岡の活躍について聞かれた竹中は、同級生の活躍に忸怩たる思いを示すでもなく、泰然自若としていた。自らを俯瞰したような言い回しをするのは、きっとこの人の性分だ。少なくとも対外的には、他人の活躍に悔しがったり、不遇を味わう現状を嘆いたりすることはほとんどない。
しなやかな松島、スピードのある福岡とはタイプこそ違うが、日本ラグビー界有数の好ランナーといっていい。桐蔭学園高時代から持ち前の馬力でタックルに来る相手を弾いた。追っ手を振り切った。
日本代表に呼ばれたのは筑波大2年時。のちにワールドカップイングランド大会で強豪の南アフリカ代表を倒した、当時のエディー・ジョーンズヘッドコーチに将来性を買われたのだ。
最初のツアー中にあたる2012年6月25日、日本代表に準ずるJAPAN XVの一員としてフランス連合軍のフレンチ・バーバリアンズから80メートル独走のトライを奪取。松島、福岡より一足先に才能を発揮していた。
しかし、2015年以降の2度のW杯でその走りを披露することはなかった。
その折、日本代表のウイングとして2大会9戦7勝6トライと気を吐いたのは松島幸太朗。さらに初の8強入りで活況だった日本大会に至っては、筑波大学時代のチームメートだった福岡堅樹も4トライ奪取した。
なぜ竹中は松島、福岡と一緒の檜舞台に立てなかったのか。日本代表に選ばれた筑波大学時代は怪我にも悩まされたが、自分を貫いたがゆえに、周囲から誤解を受けることもあったのかもしれない。
フレンチ・バーバリアンズ戦の活躍から間もなく、竹中は競技や学業の合間を縫って居酒屋のアルバイトをはじめた。竹中にとっては高校時代まではできなかった社会勉強のつもりだったが、周りの全員がそう受け止めたかは定かではない。
大学3年にあがる2013年3月、未来の日本代表を担うと期待された若手を集めたジュニア・ジャパンに選ばれるも、ニュージーランド遠征中に負傷離脱。その頃から、1年浪人して入学し、同じジュニア・ジャパンにも選ばれていた福岡が存在感を発揮する。
竹中は筑波大で控えに回ることが増えた。当時、本人はこう明かしている。
「客観的に見れば『消えた』という風に見られるかもしれませんが、僕自身は充実しています」
竹中を日本代表合宿に抜擢したジョーンズ氏は当時、竹中と同時期に代表合宿に呼び、東竹中より早く代表デビューを果たした藤田慶和(東福岡高-早大―パナソニック)の例に挙げつつ、「竹中という選手を覚えていますか? 代表は自分から入りたいと手を挙げなければ。藤田は自分からアピールしていた」といった趣旨で発言。竹中はその話を人伝に聞いたが、自分が試合に出ていれば再招集の機会も得られるかもしれないと構えていた。
「代表になりたいと言っても(顔ぶれは)選ぶ人によって違います。自分から売り込むより、黙々とやることをやって自分流が選ばれる日が来ればいい。そういう考えでやっていました」
福岡が日本代表デビューを果たしたのは竹中が筑波大3年の時。同4年時の2014年以降は、南アフリカへ武者修行に出ていた松島も代表に定着した。竹中が明かした「自分流が選ばれる日」は日本代表どころか、筑波大でもなかなか来なくなっていた。
大学卒業後は国内トップリーグのNEC入り。約5年間、社員として在籍したこのチームで直面したのが、「引退」危機だった。
W杯を終えた後の最初の公式戦となった2020年1月からのリーグ戦を前に、自身を苦しめてきた遊離軟骨の除去手術に踏み切っていた。新型コロナウイルスの感染拡大などでリーグ不成立が決まってからも、シーズン中の復帰のために進めたリハビリを継続。クラブ側から来季の構想から外れたと言われたのは、その只中にあたる4月上旬だった。
その週のうちの納会で仲間に伝え、週明けには公式に発表という段取りが組まれた。
心の整理は簡単ではなかった。
かねて「NECにはお世話になっていましたが、引退後にそこで働く自信が自分にはありませんでした」とあり、戦力外とされた時点で心に決めていた。
「他(のチーム)でできなかったとしても退社…と」
元同僚に紹介されたエージェントに、移籍先探しを頼んだ。職業アスリートとチームとの契約を支えるエージェントは、プロ選手の増えたラグビー界でも存在感が増していた。
竹中は2018年にスーパーラグビーのワラターズとの国際親善試合で持ち味を発揮するなど、光を放つこともあった。ただし、1月に開幕した直近のシーズンでは開幕6連敗したチームで出番がなかった。プレー継続への可能性について、依頼したエージェントから「厳しいかもしれないね」と前置きされた。
結局、自らがデッドラインとした5月中旬に「引退」を受け入れた。
新天地が見つからなければ、教員免許取得のため筑波大へ通い直すつもりだった。間もなく新居を見つけ、6月いっぱいまでしかいられないNECの寮を出ることになった。
この時、一本の電話が翻意を促すとは、想像さえできなかった。
桐蔭学園高校時代の同級生だった小倉順平から着信が鳴ったのは、引っ越しの荷物をまとめていた折だ。気持ちを切り替えたと素直に伝えたら、何と、小倉が食い下がった。
「え? 続けた方がいいって」
竹中、小倉、松島は中学時代の「東京都ラグビースクール選抜」で知り合った仲。竹中は特に、高校の主将だった小倉とよく話していた。
2020年にはスーパーラグビーのサンウルブズで一員に選ばれ、今季からキヤノンでプレーする小倉に期待されたことは、他のどの関係者に引退を惜しまれるよりも心に響いた。現役続行への思いを再燃させる。
小倉は自らのエージェントに竹中の担当を依頼した。日本代表主将のリーチもサポートする情熱家だった。チームによっては新シーズンへの編成を済ませていたなか、日野は竹中の生きるチャンスを作った。
「縁をつないでくださったのは助かっています。小倉にも感謝です」
かくして竹中は、引退を撤回できたのだった。

いまは引っ越す予定だったつくば市の部屋ではなく、東京郊外の実家に住む。グラウンドの近くだ。
練習日はクラブから栄養管理された食事が出され、朝やオフ時の食卓には定年退職した父がカロリー計算をしながら調理したものが並ぶ。本人は「至れり尽くせりで申し訳なくなってくる」と目を細める。
「ここまでチャンスをもらえてありがたいと思います。もし次に怪我をしてしまったら、覚悟はできている。引退したタイミングでやり切れた、楽しかったと言える終わり方になればいいなと」
今度の顛末を振り返れば、今後へのメッセージも整理できた。
各社がシーズンオフにメディアに流す退団選手の一覧表には「社業専念」とか「移籍希望」など本人の希望を記す欄をつけ足せないものか。そうすれば、引退するつもりのない選手が他クラブからのアプローチを受けやすくなるはずだ。
「選手が引退後に企業に残れるのはよさでもあります。ただ、その人の本当の持っているスキルがどれほど見ているかがわからない例もあります。…この辺りを(改めて)そこを考えたら、ラグビーというスポーツ(の取り巻く環境)もよくなる」
そして、本人以上に周りが再確認したのは、エージェントという役割の重さだろう。
盟友である小倉の人脈がなければ、竹中の選手生命はすでに絶たれていた。
この国のラグビー界は2022年1月、新リーグを始める。加盟クラブの事業性が問われ、社員選手とプロ選手のハイブリット化はますます進みそうだ。
転換期と言えるいま、竹中はただ納得できる競技生活を送りたいと言う。
「僕がいまラグビーをできているのは運がよかった。どれだけアピールしてもトップリーガーになれなかった選手がいるなか、トップリーグに残れた選手として活躍できるよう頑張らなきゃいけない」
ラグビーをやれる喜びを噛み締める竹中は、今年が「最後」のシーズンになってもいいと覚悟を決めている。親友の温かさ、家族の支えを実感した竹中にとって、コロナ禍で迎えるであろう「最後」の1年が、再ブレイクのステップになるかもしれない。



取材・文:向風見也
スポーツライター 1982年、富山県生まれ。成城大学文芸学部芸術学科卒。2006年よりスポーツライターとして活躍。主にラグビーについての取材を行なっている。著書に『サンウルブズの挑戦 スーパーラグビー 闘う狼たちの記録』(双葉社)がある