ヤクルトVS西武「伝説の日本シリーズ」が語り継がれるワケ | FRIDAYデジタル

ヤクルトVS西武「伝説の日本シリーズ」が語り継がれるワケ

1992年、93年の日本シリーズとあまりにも対照的だった今年の日本シリーズ!

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1993年の日本シリーズ、4勝3敗で西武を下し胴上げされるヤクルトの野村克也監督

今年の日本シリーズはどうして退屈だったのか?

ここ最近、多くの人にこんなことを言われた。

「今年の日本シリーズ、見ましたか? あの2年間と比べちゃうと、何とも物足りなかったですよね~」

そして決まって、「あの2年間の戦いこそ、本当の日本シリーズでしたよね」と、軽くため息をつきながらつけ加えるのだ。彼らが言う「あの2年間」というのは、1992(平成4)年、翌93年のことで、つまりは西武ライオンズとヤクルトスワローズが激突した日本シリーズのことを指していた。

昨年、そして今年の日本シリーズは2年連続で福岡ソフトバンクホークスと読売ジャイアンツが対戦し、いずれもソフトバンクが4連勝。巨人をまったく寄せつけずに連続日本一に輝いた。一方、こちらも同一カードとなった「あの2年間」の日本シリーズは両年とも第7戦までもつれ込み、92年は西武が、翌93年はヤクルトがいずれも4勝3敗という大接戦の末に日本一となった。

当時、黄金時代を迎えていた西武を率いていたのは森祇晶で、一方のヤクルトを指揮したのは「ID(データ重視)野球」を標榜していた野村克也。ともに「知将」と呼ばれた両監督による激突は「キツネとタヌキの化かし合い」と称され、2年間にわたる全14試合7勝7敗の戦いは、まるで名人同士の息詰まる頭脳戦の様相を呈していた。こうした経緯を踏まえて、人々は「あの2年間はすごかった」と口にしたのである。

ここ数年、ずっと「あの2年間」に関する取材を続けてきた。西武・森祇晶、ヤクルト・野村克也両監督を筆頭に、清原和博、秋山幸二、デストラーデ、古田敦也、池山隆寛、広沢克己(廣澤克実)ら、西武とヤクルト両チームの主力選手、裏方たちのべ50人に話を聞く日々を過ごし、ようやく『詰むや、詰まざるや 森・西武vs野村・ヤクルトの2年間』(インプレス)という一冊の本にまとまった。

冒頭に掲げたセリフは、この本の読者から寄せられた感想だった。他にも、「徹底的に頭を使って相手のスキを突く野球は面白い」「野球というのは人間と人間の戦いだと改めて知った」「ただ投げて、ただ打つだけが野球じゃないと改めて思い出した」といった感想が作者である僕の下にたくさん届いたのだ。

野村克也と原辰徳の「勝利に対する執念」の差

むやみに「昔はよかった」と言うつもりはないし、極限まで鍛え上げられたアスリートたちによる近代野球の醍醐味を否定するつもりは毛頭ない。それでも、「あの2年間」を知る多くの者が、「昔はよかった。それに比べて……」と愚痴をこぼすのは、半ば予想していたことであり、半ば想像以上に多かった。

改めて、「あの2年間」と今年の日本シリーズに思いを馳せる。確かに、「西武対ヤクルト」と「ソフトバンク対巨人」は何から何まで違っていた。一例を挙げれば、本番の前哨戦である開幕前日の「監督会議」。戦力的に圧倒的不利を痛感していたヤクルト・野村克也は92年の監督会議において、敵将である森祇晶を徹底的に挑発する。この席上、野村はいきなり「西武のスパイ疑惑」を議題に挙げたのだ。

「あくまでも噂であるけれども、いろいろ情報を集めると、“西武には気をつけろ”というパ・リーグチームの言葉がありました。それが本当ならば見過ごすことのできない問題です。この点については、ぜひ事前に確認したいと思います」

さらに野村は森に対して、「不正球使用疑惑」もぶつけている。

「かつて、阪急が飛ぶボール、飛ばないボールを使用していたという噂がありました。神聖な日本シリーズにおいて、ボールの管理も徹底しなければならない。この点についてはどうなっているのか?」

もちろん、この発言もまた秋山、清原、デストラーデと連なる「AKD砲」、西武の強力クリーンアップに対する牽制だった。改めて、今年の監督会議を思い出してほしい。ソフトバンク・工藤公康監督の「セ・リーグ球場でもDH制を」という提案に対して、巨人・原辰徳監督は「受けて立つ」とアッサリと受諾。野村のなりふり構わず相手を揺さぶろうとする姿勢と、スポーツマンシップに準じた原の潔さは実に対照的だった。

失われつつある「頭を使う野球」への憧憬

昨年現役を引退したイチローが引退会見の席上でこんな言葉を口にした。

「2001年に僕がアメリカに来たけど、2019年現在の野球は全く別の違う野球になりました。まぁ、頭を使わなくてもできてしまう野球になりつつあるような……。(中略)本来は野球というのは(中略)頭を使わなきゃできない競技なんですよ、本来は。でもそうじゃなくなってきているのがどうも気持ち悪くて。ベースボール、野球の発祥はアメリカですから。その野球がそうなってきているということに危機感を持っている人って結構いると思うんですよね」

この言葉に端的に現れているように、「あの2年間」を懐かしむ思いの根底にあるのは、イチローの言う「頭を使う野球」に対する憧憬であり、それが失われつつあることに対する危機感なのではないだろうか? 92年、そして93年の激闘を振り返って、森はこんな言葉を残している。

「本当にあれだけ死力を尽くした戦いはヤクルトとの日本シリーズだけでした。勝負というのは互角の力であれば時の運ですよ。後手に回ればやられる。そうかといって先手、先手で勝負すれば相手の術中にハマることもある。ここは動くか、動かないか。その判断をずっと求められていた。本当に大変だった。でも、本当に楽しかった。すべては野村監督との戦いだったから可能になったんです」

一方の野村は、森に対してこんな言葉を残している。

「彼がどう思っているかはわからないけど、“森には負けたくない”っていうライバル意識が、オレにはあった。それは彼が巨人出身だからかもしれないね。ずっと頭の片隅にあったよ、“森には負けたくない”っていう思いが」

それぞれが、それぞれに対して畏怖と敬意を抱いていたからこそ、両監督は知恵を絞り、さまざまな策を講じた。92年の第7戦、西武・石井丈裕、ヤクルト・岡林洋一はともに延長10回を投げ抜いた。森も野村も、ともに「(相手)投手を代えてほしい」と願っていた。しかし、その思いを知る両者は「絶対に(自軍)投手は代えない」と続投を命じた。

「詰むや、詰まざるや」の戦いをもう一度!

工藤と原の間にも、森と野村のような畏怖と敬意があったのかもしれない。両監督とも知恵を絞り、さまざまな策を講じたのかもしれない。時間が経過すれば、両監督の息詰まるような駆け引きも見えてくるのかもしれないが、現時点では尊敬も敬意も、駆け引きも垣間見ることができなかった。しかし、その一方で「あの2年間の日本シリーズは知力の限りを尽くした激戦だった」と自信を持って断言できる。

今年2月、野村が天に召された。その直後、改めて野村との思い出を森に聞くと、彼は再び「あの2年間」について語り始めた。

「お互いの手の内を知り尽くした者同士が監督となって死力を尽くして戦ったのがあの2年間の日本シリーズだったよね。“もう、そろそろ手を打ってくるだろう”と思っているのに、相手はまったく動こうとしない。“ここは動かないだろう”と思っているところで策を講じてくる。僕は現役時代も、コーチ、監督時代も何度も何度も日本シリーズを経験しているけれど、あれだけ緊張し、疲れ果て、しびれたシリーズはなかったな」

森の言う、「あれだけ緊張し、疲れ果て、しびれたシリーズ」をもう一度見たい。当事者たちはもちろん、我々ファンもそんな思いを抱いている。92年、そして93年と2年にわたる息詰まる死闘が確かにあった。森は勝利監督となり、野村も勝利監督となって宙を舞った。打つ手を一つ間違えれば、まったく異なる結果が待っていたことだろう。

稀代の勝負師たちは詰むや、詰まざるやの読み合いの末、ともに勝利監督となった。あれからかなりの時間が過ぎた。それでも、まったく色褪せることなく、いや、時間の経過とともに、さらなる凄みを増してあの2年間が鮮やかによみがえるのだ。

  • 長谷川晶一

    1970年東京都生まれ。早稲田大学卒業後、出版社勤務を経てノンフィクションライターに。転身後、野球を中心とした著作を発表している。主な著書に『いつも、気づけば神宮に 東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『幸運な男 伊藤智仁 悲運のエースの幸福な人生』(インプレス)など多数。文春オンライン内の文春野球ではヤクルト担当として2年連続優勝を飾る。Number Webでコラム「ツバメの観察日記」連載中。

  • 写真時事通信社

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