57歳で正社員「止めた時計」を動かしたやなせたかし最後の編集者 | FRIDAYデジタル

57歳で正社員「止めた時計」を動かしたやなせたかし最後の編集者

  • Facebook シェアボタン
  • Twitter シェアボタン
  • LINE シェアボタン
  • はてなブックマーク シェアボタン
念願のサンリオ入社がかない、1年半が経過した1983年冬、同社の出版部主催のパーティーでやなせたかし氏と記念撮影

「何とか最終列車に間に合いました…」

こう明かすのは「朝日小学生新聞」編集者の平松利津子さん。2013年、今でも人気のアニメ『それいけ!アンパンマン』を世に残して逝った故やなせたかし氏(享年94歳)の最後の編集者だ。

やなせ氏の作品はもちろん、編集者の人柄に憧れてサンリオに入社したものの、結婚と子育てのために退社。その後、リーマンショックの大不況の最中に携帯電話の就職情報で転職先を見つけ、48歳で編集者として復帰。3年前、57歳で正社員になった。

あきらめず、追い続けていれば、夢は叶う。新型コロナウイルスの感染拡大により、先が見えない今だから、読んでおきたい物語だ。

10年間毎年続けた、ある“儀式”

令和から、平成、昭和とさかのぼっても、女性が「恋に落ちた」ときの言葉は共通している。平松さんはやなせたかし氏が作ったある雑誌を偶然読んだときの思いをこう明かした。

「まさに“ビビビッ婚”です。やなせ先生は漫画家ですが、私にとっては言葉の人、詩人でした。書かれた言葉に光とぬくもりと、どこか寂しさが感じられて…心惹かれました。そのとき、やなせ先生が編集していた『詩とメルヘン』を発行しているサンリオへ入って、やなせ先生の本を作る人になろうと誓ったんです。そして、『サンリオ入社10年計画』を立てたんです」

13歳の春。家族旅行で伊豆・熱川に出かけたときに「詩とメルヘン」に出会った。のちにアンパンマンでブレイクする、やなせ氏は実に多才な人だった。漫画家であると同時に、「手のひらを太陽に」など多くの詩を残した詩人であり、作詞家であり、画家であり、編集者でもあった。1973年に創刊された「詩とメルヘン」では、30年間385号、全ての表紙をやなせ氏が描き、詩人と画家を公募するという異色の雑誌だった。

平松さんは今でこそ、思い立ったらすぐに行動に移す快活な人だが、幼少期は人見知りな性格だった。友だちとは遊ばず、担任の先生といるほうが居心地がよく、職員室には専用の椅子が置いてあったという。

やなせ氏に魅せられた平松さんは雑誌に出会った後、やなせ氏に会うために都内で行われたイベントへでかけた。会場ではサイン色紙が1枚3000円で売られていた。そうとは知らずに差し出したサイン色紙を前に、やなせ氏は「君の住所を書いておいていきなさい」と。すると、1週間もたたずにサイン色紙が届いた。

やなせ氏は当時、9歳年下の手塚治虫の才能を認め、「手塚治虫くんは天才だ」と周囲にも明かす人だった。平松さんにも「僕なんか応援するより、手塚くんのほうがいい」と言った。平松さんはその誠実さに惹かれた。「私は先生が好きなんです」。そして、「大人になったら必ずやなせさんの本を作る」と決めた。

当時、中学生だった平松さんは、やなせ氏の出版物を多く出していた「サンリオ」に入社すれば、夢は実現できると思った。サンリオの「会社説明会」には中学生で参加した。会社側も「一番、後ろに座っていればいい」と快諾。それを何と10年間も毎年続けた。会社側も一番後ろに平松さんの「指定席」を用意した。気がつけば大学3年生の冬、22歳になっていた。その年、初めて最前列に座った。

「入社試験は無事合格しました。何の確証も、コネもなかったんですけど必ず私の席はあると思っていました。大学の教授から〝君は小料理屋の女将が向いている〟言われていたんですけどね…(笑)」

やなせたかし氏の作品や思い出の品を紹介しながら半生を振り返る平松さん(撮影:村田克己)

ただ、研修後の配属先の発表は希望の出版部ではなく、営業部。「このままでは、やなせさんの本をつくることができない」という思いを抱えた。8ヶ月経った頃、転機が訪れた。サンリオでは当時から、年1回、B4版で「自己申告書」を会社に提出する機会があった。異動希望も受け入れる会社だった。

「その申告書は、巻紙になってしまったんです。今までの私の思いはB4の紙1枚ではとても足りなかった。『私はやなせたかしの本を作りたい、この一心で10年かけてサンリオに入ったんです。私の能力は生かされていない』と書きました」

当時の営業部長には「気持ちはわかった。でも、もう少し君を営業部で育てたかった」と言われて、泣いた。サンリオではしばらくの間、平松さんの「自己申告書巻紙伝説」は新人研修のネタになっていた。

念願の出版部に異動すると、サンリオの看板「いちご新聞」の担当になった。国内のイベントにとどまらず、米国への出張で、1985年スヌーピー誕生35周年で作者、故チャールズ・シュルツ氏に突撃インタビューもした。「歌って、踊って、司会も、声優も、手品もできる編集者」としてメキメキ頭角を現した。そんな時、同じ会社の5歳年上の上司と結婚した。

当時は「結婚はいいけれど、出産したら退職」という習慣があった。男女雇用機会均等法(1985年施行)などはまだ十分に浸透していない時代。世間ではごく普通のことだった。平松さんは入社4年、26歳で退社した。

「もちろん家族や子どもは大好き。でも、女性であるがゆえになぜ大好きな仕事を我慢しなきゃいけないのか。なぜ、カゴの鳥にならなきゃいけないのか」

夢に向かう時計を止めることに、抵抗があった。

「でも『いつからでもチャレンジできるよ』と励まし続けてくれた夫が、『詩とメルヘン』の仕事の一部を持ってきてくれました。詩の投稿は、全国から月に1万通近くありました。やなせ先生に1万通すべてを読ませるわけにはいかない。子どもが寝た後、毎月200通ほどを目安に選んでいました。夫からの言葉こそなかったですが、『本当にやりたいことはいつからでも挽回ができる。くじけるな、諦めるな』という、エールを送られていた気がしています」

アニメ「それいけ!アンパンマン」の原作となった初代「アンパンマン」。1969年10月、やなせたかし氏が描いた短編メルヘン集『十二の真珠』という童話のひとつに登場したものだった

窮地で助けてくれる「アンパンマン」がいた

家で「詩とメルヘン」の仕事をすることで、やなせ氏とのかかわりは細々と続いた。ただ、年子で生まれた2人の息子の子育ての比重が圧倒的に大きかった。子どもたちと同じ空間にいることが好きで、親たちが敬遠したがるPTA活動にも積極的に参加。「PTA会長」の役も担った。トータルで20年近いPTA活動の中で、サンリオ時代のキャリアを生かし、保護者向けのバザー新聞を発行。過去最高の収益を上げたこともあった。

次男の大学も決まった時は48歳。夢に向けた再演の幕を上げた。この頃、演劇鑑賞団体のアルバイトをしていたが、人間関係に悩み、眠れない日が続いていた。何気なくガラケーで就職情報を検索していると、「朝日小学生新聞・編集者募集」という文字が飛び込んできた。20数年ぶりに履歴書を書いた。周囲には「この就職難の時代に48歳のおばさんに何ができるの?」という言葉をあびせる人もいた。

「火がつきましたね。よし、やってやる。私以外、受かる人がいるわけがない」

合格はしたが、派遣社員としての採用だった。22年ぶりとはいえ、念願の社会復帰。一方、社内では確かに48歳の採用には心配もあったという。

「年下の人から命令されても大丈夫ですか?と面接で聞かれましたね。その頃、あるミニコミ誌が私の半生を書いてくれていたので、それを面接の時に見せながら語りました。何よりも子育て経験者ということ。これが決め手になったかのかなぁ」

思いは必ず叶う。やり残した仕事の時計を再び動かした。

「私が窮地になると必ず助けてくれる『アンパンマン』が現れます。これまで幾度も人や言葉に救われてきました。好きなことに向かって進むとき、私の心は熱く、オープンになります。なかでも、私が信頼を寄せる人の言葉は、きちんと受け止めなければいけないと思い、耳を傾けます。

たとえば子育てしているときに夫から言われた『いつからでもチャレンジはできる』という言葉自体は、それほど特別な言葉ではありません。ただ、かけてもらった言葉をどう受け止めるか。スルーするも、謙虚に受け止めるも、結局、それはその人次第です」

節目の50歳。2010年に「やなせたかしのメルヘン絵本」という紙面企画がついに通った。「新聞10段分にお話と絵を描いて欲しい」とやなせ氏に直談判した。69歳の時にTVアニメ版「それいけ!アンパンマン」でブレイクしたやなせさんはこの時、91歳。「悪いが、ぼくは忙しいんだよ」、「月2回、隔週でいいから、いずみたくさんと作った『0歳から99歳までの童謡』をテーマに書いてください」と迫った。やなせさんは、内容を聞いて快諾した。2週間も経たぬうちに連絡が入った。「5枚描いたよ。僕は明日、死ぬかもしれないからね」。

人目をはばからず号泣した。

この翌年「3・11」が起きた。平松さんは東日本大震災で壊滅的な被害を受けた岩手県・陸前高田市の出身だ。1週間後、やなせ氏に呼ばれたとき、こう訴えた。

「私の故郷が流されました。助けてくだい」

やなせ氏からはこう告げられた。

「東北から関東まで広域に大変な時にアンパンマンは一つの街を応援するわけにはいかないんだ。でも、やなせたかしが君のことを応援する」

「やなせたかしのメルヘン絵本」1巻の最初の話に登場する「ヒョロ松」の絵

7万本あった松林で、たった1本残った「奇跡の一本松」。やなせさんはこの木を「ヒョロ松」と名付けた。全国でも一躍注目された。そして、この一本松を支援するプロジェクトをやなせさんとともに行った。「やなせたかしのメルヘン絵本」の中に特別に「ヒョロ松」の話も5話入った。

「本の帯に『僕はアンパンマンとこの本を作るために生まれてきたのかもしれない』という言葉をいただき、感動しましたね。この絵本は先生からの卒業証書だ、と。本当にそう思いました」

震災の2年半後、やなせさんは94歳で亡くなった。

平松さんはその後、57歳で朝日小学生新聞の正社員になった。「やなせたかしの本を作る人になりたい」と決めて40年以上の年月が経っていた。

「やなせ先生自身もアンパンマンでブレイクしたのが69歳。『諦めなければ夢は叶う』という実現者でした。私が敬愛したやなせたかしという人間をいろんな方に伝えたいという思いだけで走ってきました。組織の中でもうまくいかないことはたくさんあった。でも、どの出来事も無駄なことは一つもなかった。なんとかやなせ先生の最終列車に間に合った、そう思っています」

人気アニメ「それいけ!アンパンマン」は今でもテレビで放映されているが、
やなせ氏が自ら生み出した最後の作品は、死後、約2か月が経過した2013年12月2日付の朝日小学生新聞の紙面だ。2010年4月から続いた週1度の連載記事「メルヘン絵本」だった。平松さんが、「コナ」というタイトルの原稿を受け取ったのがやなせ氏が亡くなる5日前。当時、最終回と決めたわけではなかったのに、原稿の末尾には「おわり」と書かれていた。

もともと編集者だったやなせ氏は、自分の担当編集者が困らないよう、常に1か月前には原稿を出す人だった。2013年10月13日に亡くなった後も約2か月連載が続いたところに、やなせ氏の人柄がにじみ出ていた。

来年は東日本大震災から10年目。「松の木を育てるには50年かかる」と言われるが、防砂林でもあった高田松原の一刻も早い再生を願っている。やなせ先生と育てた「ヒョロ松」の仲間を増やすために……。

やなせ氏は、いただき物の御礼をするために、海外の仕事先からも律義に手紙を送ってきたという
やなせたかし氏が最後に書いた連載を絵本にまとめた「メルヘン絵本」。第3巻の帯にはこう書かれている『僕はアンパンマンとこの本を作るために生まれてきたのかもしれない』(撮影:村田克己)
  • 写真提供平松利津子氏

Photo Gallery7

Photo Selection

あなたへのおすすめ記事を写真から

関連記事