初のラグビー大学日本一 天理大「コロナ集団感染」を超えた結束
新型コロナウイルスの集団感染を乗り越えてもぎとった初Vの軌跡
天理大ラグビー部が大学選手権を初制覇。新型コロナウイルスのクラスター発生など、苦難を乗り越えての悲願達成。その裏には、指揮官の英断と長年の積み重ね、県境を越えた交流があった。
コロナ感染者がわかった「あの日」のこと
東京は国立競技場のスタンドは静かだった。ど真ん中の芝から、威勢の良い声が響き渡る。
「いくぞー!」
「天理、自分にベクトル向けろ!」
「オッケー! 天理、きついけど(最後までやり)続けるぞ!」
試合は大学選手権の決勝。黒いジャージィの天理大ラグビー部が、ぶつかり合い、球の奪い合いを支配する。55―28。2連覇を目指した早大を制し、初の大学日本一に喜んだ。
始動したのは昨年6月上旬。新型コロナウイルスの感染拡大の影響を受けた。わずか2か月後の8月中旬には、部内でクラスターが発生した。ここから約1か月間、練習ができなくなった。
今度の初優勝は、準備期間の短縮化という困難を乗り越えての結果なのだ。
ノーサイドの瞬間、後半32分に退いていた主将の松岡大和は右のこぶしを握りしめ、フィールドの仲間の元へ駆け寄った。破顔した。
「ありがとうございまーす! めちゃくちゃ嬉しいです!」
あの悲運に出くわしたのは、個々のコンディションを引き上げ、ようやくチームプレーを磨こうとするタイミングだった。
その日、いつものように天理市の白川グラウンドへ出た小松節夫監督は、前日に発熱を訴えていた部員へ具合を聞く。
「熱は下がりました。ただ、ちょっと味覚が…」
「…! ちょっと待て!」
流行のウイルスの症状に味覚障害があるのはかねて知っていた。そのまま部屋へ帰らせてPRC検査を受けさせると、翌日には陽性反応が出た。結果がわかった瞬間は練習開始の直前だった。
白川グラウンドに出る部員へ、「とにかく中止! 寮に帰ってこい」と指示した。
検査の結果、168名の部員中62名に陽性反応が出た。まもなく陰性者は部屋を出て、実家や天理市内の施設へ籠城した。陽性者は病院やホテルへ隔離される。
松岡は、小松に感謝してやまなかった。それまで住んでいた寮に残り、部員の移動に関する煩雑な手配を一手に引き受けたからだ。
先の見えない状況下。「もう、試合はないんじゃないか」とこぼす部員へは、「目標は日本一だ」と叱咤した。関西大学Aリーグへの参加を信じさせた。
<謝罪すべきだ>
<原因は部内の鍋宴会>
この手の誹謗中傷や根も葉もないうわさには、耐えるほかなかった。

ピンチのときに支えてくれた人たち
チームは結局、9月中旬に再始動した。寮を3~4人部屋から2人部屋にしてフィジカルディスタンスを取り、あぶれた選手は別な居住施設に移った。グラウンド前の部室の入口には、「集まって喋る・着替えなどは厳禁!」との注意書きをいまでも張っている。
リスタートの時期を前後し、不幸中の幸いと言える出来事はふたつ、あった。
ひとつは、あの日、市中感染を巻き起こさなかったことだ。小松監督が「味覚が…」の一言に首尾よく反応したことで、当時の天理市内の感染者をラグビー部員のみに止めたのだ。大英断が実ったと言える。
「(ウイルスを)天理市でもらったのでもなく、おそらく県外かどこかでもらって、寮のなかで広まって、天理市には、(その時点で一般の感染者は)出なかった。うちではたくさん出ましたけど、あれが外へ出ていて市中感染の原因を作っていたらもっと僕らは申し訳ない気持ちでした」
そしてもうひとつは、部員同士で誰が感染源となったのかを探ったり、陽性者の行動を咎めたりする向きが少なかったことだ。指揮官はこうも続ける。
「最初のうちは『お前(陽性反応者の第1号)がどこか(県外の人の多い場所)へ行っていたんだろ』というようなことも言い合っていましたが、よく考えたらそいつが最初(の感染者)かどうかもわからない。次第に詮索を止めて、そうしたら天理市が(並河健市長が部を擁護する声明などで)我々を守ってくれた。ありがたかった」
天理大は一昨季の選手権で準優勝、昨季は4強入りと、悲願の大学日本一にあと一歩と迫っていた。勝利を目指すのと希求と無関係な感情を排除する習慣が、長い積み重ねのなかで根付いていたのだ。
10月の交流試合、11月に開幕の関西大学Aリーグを通し、試合で出た課題を練習で修正するというサイクルを徹底した。当初は繋がるはずのパスが繋がらぬこともあったが、攻撃陣形の微修正やコミュニケーションの見直しを図って問題を克服した。
関西の戦いを5連覇して迎えた大学選手権では、流経大、明大という関東勢をそれぞれ78―17、41―15と圧倒した。常に多彩な攻撃オプションを用意し、エースのシオサイア・フィフィタはスピードに乗ってパスをもらった。その向きはファイナルでも見られた。
若者の献身を陰で支えたのは、県境を越えた交流だった。
約1か月の活動停止は、毎年恒例の夏合宿の中止も意味していた。
天理大の合宿を世話する「菅平プリンスホテル」の大久保寿幸は、あの瞬間から間もなくして小松監督から着信を得る。17日からの宿泊をキャンセルしたいと伝えられた。
以後は学生のマネージャー、主務からの謝罪の電話へつとめて「防ぎようはない」と応じた。
いつもはラグビー選手が行きかう菅平エリアはこの夏、閑散としていた。
リーグ戦開幕前には、お忍びで白川グラウンドを訪問した。
「夏に皆と会えなかった分、いつもの年より応援したい気持ちが強くなっているぜ!」
明るく激励し、小松監督の呼びかけで集合写真を撮った。
松岡は、その後に大久保からリンゴが届いたのが嬉しかった。周りの支えに頭が下がる。
「『専務』とは話していたら面白い。その思い出が、強いです。本音を言えば合宿はやりたかったです。何が何でも。でも、仕方がない。それに、合宿がなかったことによって色んな事に気づかされました」
ちなみに「専務」とは、大久保のニックネームだ。
果物の宅配は毎年恒例のイベントだった。一時は「さすがに今年はやめておこうか」と迷った大久保だが、最後は「うち母には天理大の子に長野のものを食べてもらいたい思いがある」と決断する。
時間が経てば、松岡やフィフィタがリンゴを手にした動画をツイッターのダイレクトメッセージで送信してくれた。安心した。

20年近く見続けてきた「専務」が見た変化
2002年から世話をしている大久保にとって、今度の優勝はウイルスを乗り越えた結果という以上の意味を持つ。
当時のチームは、現在加盟する関西のAリーグへ1991年度以来の復帰を決めて2季目のシーズンを控えていた。大久保は小松に頼まれた。
「私生活を見て欲しい。何かあったら遠慮なく教えて」
様子を見てみると、学生が敷地内の移動に使うゴルフカートを楽しそうに乗り回していた。「専務」は「愉快な奴らが多かったですよ」と朗らかに後述する。
天理大が初めて大学選手権のファイナリストとなったのは、後に日本代表となる立川理道主将を擁した2011年度のことだった。大久保はその2年前あたりから、学生の身体がアスリート風になっていると感じた。
「あと、これが悪いというわけではないんですけど、昔は海外のサッカーチームのユニフォームを着て練習する選手もいました。そういう選手も、だんだん、いなくなった」
グラウンド外での規律が整うなか、防御の背後へピンポイントのパスを通す繊細なスタイル、地を這うしぶとさ、低くまとまったスクラムといったグラウンド上の長所も磨かれていたのだ。
若き日は馬術のプロ選手だった「専務」は、この冬に予定されていたスキー合宿の相次ぐキャンセルにもめげず、天理大のラグビー部へ有形無形のエールを送ってきた。
「彼らには憧れ、みたいなものもあります。こんなに強くなってくれてありがたい」
試合当日。準決勝の後に奇跡的に手にしたチケットを手に、メインスタンドの2階席へ駆けあがる。
果たして歴史の分岐点を目撃した。



取材・文:向風見也
スポーツライター 1982年、富山県生まれ。成城大学文芸学部芸術学科卒。2006年よりスポーツライターとして活躍。主にラグビーについての取材を行なっている。著書に『サンウルブズの挑戦 スーパーラグビー 闘う狼たちの記録』(双葉社)がある
撮影:長尾亜紀