歴史研究家・半藤一利さんが語っていた令和の日本人への懸念 | FRIDAYデジタル

歴史研究家・半藤一利さんが語っていた令和の日本人への懸念

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はんどう・かずとし/昭和5(1930)年生まれ。東大文学部を卒業後、文藝春秋入社。専務取締役を経て文筆業に。『日本のいちばん長い日』は終戦の日を描いたベストセラーとなり、映画化もされている。『ノモンハンの夏』『昭和史』『文士の遺言』など著書多数

作家で歴史研究家の半藤一利さんが1月12日に亡くなった。享年90。東大文学部を卒業後、文藝春秋入社した半藤さんは、専務取締役を経て文筆家に。終戦の日を描いたベストセラー『日本のいちばん長い日』をはじめ、『ノモンハンの夏』『昭和史』『文士の遺言』など数々の作品を書き残した。

歴史とは何か、戦争とはなにかという問いに徹底的に向き合った半藤さん。その根底にはどんな思いがあったのか。フライデーが2019年6月、ご本人にその壮絶な半生を聞いてまとめたインタビューをここに再掲する。

「オマエは非国民だ」

半藤氏は昭和5年、東京の下町、向島(現・墨田区)に生まれている。その翌年には満州事変が勃発、次第に日本は軍靴の音が高く鳴り始めていった。

昭和15年頃になると、半藤少年は互助組織だった「隣組」が監視機関に変貌するのを目の当たりにした。「この戦争は負ける」という父の発言を密告され、半藤家は1年あまりの間に3度も警察に踏み込まれたのだ。

「そんな父の影響もあって、旧制中学に進学しても、私は軍人の学校には一切行かないと決めていた。周囲はやれ陸軍幼年学校だ、少年航空兵だと熱に浮かされていたので、『オマエは非国民だ』とよく罵(ののし)られたものです」

半藤少年の思惑をよそに戦況は悪化の一途をたどる。そして14歳だった昭和20年3月10日。東京大空襲で下町は、すさまじい火炎に包まれた。

「焼夷弾の荒れ狂う中を逃げまくり、九死に一生を得た。空襲がおさまった後、焼け野原の中で、そこら中にある死体を片付けました。

防空壕の中があんなふうに蒸し焼きになるなんて……想像を超えていました。蒸し焼きだから黒焦げじゃないんです。おびただしい死体が折り重なっていてね。それを片付けていくと、一番下の死体だけは直接地面に接触して炭化している。これは、実に軽かったですね。中学2年の私がひょいと持てちゃうくらいでした。

そうやって死体を運び出していたら、2時間ぐらいで警防団の大人たちに『お前たち、もうやめろ。これは大人の仕事だ。帰れ』と追い払われた。帰れと言われたって、一面焼け野原でしたがね。ただ、もっと死体処理を続けていたら、今でいうトラウマになったかもしれません。

だけどこんな話は、40代半ばぐらいまでは、到底口にできませんでした。

話し始めたのは、自分が仕事で旧軍人の話を聞くようになったからです。

旧軍人って、嘘をつくんですよ。もちろん誠実な人もいましたが、それ以上に、他人の話を自分のことのように話す奴、自己弁明する奴が山ほどいた。初めのうちは私も本当のことだと思って全部鵜呑(うの)みにしていたんです。ところが、だんだん取材を重ねていくうち、他の証言や記録とかから考えて、コイツがその日時にその戦線にいたはずない、ということがわかってくるようになった。それを指摘すると激高するんですよ。お前みたいな戦争を知らない若造に何がわかる! ってね。それで言い返すようになった。

『あんたはそう言うけど、本当は最前線に出ないで南の島の基地にいただけじゃないか。そのころ俺たちは本土空襲で焼夷弾を山ほど浴びて、死ぬ思いをしたんだ!』。そう言わざるをえなくなった。

戦争の話は、本当にこちらが勉強して、かなりの知識を詰め込んでから対峙しないと危ない。本人が言っているんだから間違いない、なんてことはないんですよ。誰だって自分を守りたい。それを忘れちゃいけません。

私自身、必死に東京大空襲を生き抜いたけど、だんだん語り慣れてくるというのかな。気がついたら、非常に冷静沈着な勇気ある少年が、あの火事の中を逃げて、人を助けようとして川に落ちて……なんて、格好いい体験談になってきた。

あのときの私は、実際はそこら中に散らばる死体を見ていても、哀しいなんていう気分は全然なかった。麻痺していました。そういう言いたくない部分は抜け落ちてしまうんです。ただ、書くときはさすがに自制が利きますから大言壮語にはなりにくい。最近、よく『体験を語り継げ』という声を聞きますが、じつは語り継ぐのは難しいことなんですよ」

半藤氏は自戒をこめて、こう語る。

国際連盟を脱退して以来、日本には外交なんて一度もない

戦争をしてはならない、と繰り返す半藤氏は、同時に戦争へと引きずられないためにいかに外交が必要かを説く。

「私に言わせれば昭和8年以来、日本に外交なんてものは一回もありません。

昭和8年3月。決してやってはいけなかった国際連盟脱退から、日本はどんどん突っ走って戦争になり、敗戦になった。昭和27年に独立したといっても、その日から安保条約の傘の下に入り、自分たちのことを米国に丸投げした。それが今まで続いている。昭和8年から外交がないということは、もう誰一人、日本人は外交の経験がないということです。だから北方領土の暴言を吐く議員みたいなのが出ても、どうしようもないんですよ。

北方領土のことで言えば、かつて幕府海軍を率い、維新後に駐露特命全権公使になっていた榎本武揚(たけあき)が、樺太千島交換条約を結びました。日本国内では、広いほう(樺太)をロシアに渡すとは、と大不平が出たんですが、実はロシア国内もこの決定には大反対が巻き起こっていた。

『あんなだだっ広くて何にもないところをもらってどうするんだ。俺たちに必要なのは太平洋に出ていくための足がかりじゃないか。千島が日本の領土になったら、ロシア艦隊が太平洋に出る海路は封鎖されてしまう!』と。

榎本は目先の大小にとらわれず、その地が将来どのような役割を果たすかまで見通して交渉した。榎本が行ったことこそが外交というものです」

太平洋戦争から74年。昭和から平成へと、曲がりなりにも日本は平和を保ってきた。令和の世はどうなるのだろう。

「この前、3ヵ月だけ女子大で講義をしたんです。そのとき、アンケートをとります、と4択問題を出した。

『太平洋戦争において、日本と戦争をしなかった国は? ①アメリカ ②ドイツ ③旧ソ連 ④オーストラリア』

そうしたら、50人中実に13人がアメリカと答えた。次の週に、『僕の授業を聞いてるのに、君たち13人はふざけてるのかね?』と聞いたら、大真面目だと言う。しかもその一人が手を挙げてこう言った。

『で、どっちが勝ったんですか?』

こうやって話していると笑い話のように聞こえますが、決して笑い話じゃない。これから来る令和の時代って、きっとこういう時代なんですよ」

「戦時中、戦争に疑問を呈すると『非国民』だと怒られた。最近では私は『反日』だと言われてるらしい(笑)」

『FRIDAY』2019年6月28日号より

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