こんな時代もあった!昭和のプロ野球「懐かしいキャンプの風景」 | FRIDAYデジタル

こんな時代もあった!昭和のプロ野球「懐かしいキャンプの風景」

今とは大違いだった、昭和のキャンプ風景!

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プロ野球キャンプイン  雪の平和台球場でキャッチボールする西鉄ナイン=1963(昭和38)年2月1日、福岡市
プロ野球キャンプイン  雪の平和台球場でキャッチボールする西鉄ナイン=1963(昭和38)年2月1日、福岡市

プロ野球界の「憲法」ともいうべき野球協約の173条には、「球団又は選手は、毎年12月1日から翌年1月31日までの期間においては、いかなる野球試合又は合同練習あるいは野球指導も行うことはできない」と書かれている。スター選手たちが年末年始に様々なバラエティ番組に出演するのは、この協約によって12月、1月は球団の管理から外れ、自由に行動できるからだ。

この2ヵ月のためにスター選手の多くは球団の他に、芸能事務所などとマネジメント契約を結んでいる。

そして2月1日が来るとプロ野球選手はユニフォームにそでを通し、球団が指定する場所に集結する。その終結する場所を「春季キャンプ」と呼ぶ。

プロ野球の春季キャンプは、端的に言えば「劇団の座組」のようなものである。劇団は新たな公演のたびに、劇団員の配役を決める。おなじみの顔もいれば、新参者もいる。客演も含めた中から主役や脇役、二枚目、三枚目などの配役を決める。座組が決まってようやく「稽古」が始まるのだ。

この過程を経なければ芝居はできないのと同様、春季キャンプを経なければ、プロ野球チームはペナントレースを戦うことができない。緊急事態宣言下、プロ野球が無観客でも春季キャンプを行うのは、それほど重要なプロセスだからだ。

春季キャンプにまつわる風景は、昭和と令和では大きく変わった。

「2月の奈良言うたら盆地の気候で寒いのにドラゴンズの選手がキャンプを張っていた。僕は小学生で、選手が泊まっていた旅館の『大仏館』に覗きに行ったけど、選手、どてら着てふるえてたな」奈良県在住の老人のことばだ。

1954、55年と中日は奈良公園にあった奈良県営球場でキャンプを張った。杉下茂は「氷点下で、芝に張った氷を割って練習をした」と語っている。主力選手は部屋をあてがわれたが、若手は大広間に雑魚寝だった。

同じ1954年、貧乏球団だった西鉄ライオンズは、平和台球場での一次キャンプのために合宿所を設けた。「設けた」と言えば聞こえがいいが、西鉄バスのバスガイドの宿舎をそのまま合宿所にしたのだ。

選手には部屋が割り振りされたが、部屋と部屋の間には薄いふすまがあるだけ。前年社会人から入団して3勝を挙げた河村英文は、外野手の八浪知行と相部屋になったが、隣は誰だろうとふすまを開けてみるとなんと三原脩監督。直立不動で挨拶をする選手に三原は笑顔で「よろしく頼むよ」と言ったが、それから河村と八浪は生きた心地がしなかった。

西鉄の二次キャンプは島原市民球場だった。当時は球団スタッフも少なく、ボールが外に飛び出すと若手選手が回収に行ったが、あまりにも頻繁なので練習にならない。そこでマネージャーの藤本が一計を案じ、近所の小学校を下校する小学生に「ボールを拾ってくれたら100円出すよ」とアルバイトの誘いをかけた

小学生はいい小遣い稼ぎと喜び、翌日から球場の周りには小学生が詰めかけ、ボールが飛び出すたびに駆け出した。その事情を知らない三原監督は「うちは子供に人気があるな」とご満悦だった。

練習が終わると選手は大広間で食事をした。その後飲みに出る選手もいたが、キャンプで人気だったのは麻雀だ。大広間に雀卓が並べられ選手がじゃらじゃら音をさせていた。監督も選手と一緒に卓を囲んだ。中日の天知俊一監督は「選手の気持ちを把握するためには必要なこと」と語っている。もうもうたるたばこの煙の中、どてら姿の選手たちは夜が更けるまで麻雀に興じた。

当然、賭けるものも賭けていたから、今なら大問題だが、当時のスポーツ紙は誰が強いかを無邪気に報じていた。

今の春季キャンプはその地の一流ホテルを丸ごと一棟借り切るのが普通だ。また、練習が終われば選手は自由行動となり、食事に出たり、部屋でゲームをしたりする。室内練習場で夜もトレーニングする選手もいる。夜の姿も大違いだ。

春季キャンプ、昔と今で大きく違うのは選手の「体形」だ。

今は評論家になっている某氏は「12月に契約更改を済ますと元旦に彼女と一緒に空港からハワイに行って、羽田に戻ってそこからサイパン、また羽田に戻ってそこから香港、自主トレ兼ねてゴルフしたりうまいもの食べまくって、一度も家に帰らずに1月31日に空港で彼女と分かれてキャンプインしたもんよ」と話した。この選手以外にも田舎に帰って宴会三昧をしたり、都会の巷にどっぷりつかったり、選手たちは思い思いに羽を伸ばした。

その結果として、2月1日、キャンプインの日には各地ででっぷりと太った選手たちが見られたものだ。阪神などは遠井吾郎、田淵幸一、江夏豊などが堂々たる太鼓腹で現れてスポーツ紙では「阪神部屋」という言葉が躍った。

こういう選手はキャンプ序盤は酒の気を抜き、身体を絞るためにひたすら走った。今もベテランOBが「キャンプでは走らないと」というのは、そういう意味合いもある。だからブルペンに入ったり、守備練習をしたりするのはキャンプ中盤になるのだ。

今のプロ野球では1月から「自主トレ」という名のプレキャンプが始まっている。選手はいつでも野球ができる状態でキャンプインする。沖縄のように温暖なキャンプ地では早ければ初日からブルペンで投げる投手がいる。そして2月上旬には練習試合が始まる。今の春季キャンプで、体重が大幅にオーバーしている選手がいたら大ごとだ。コーチにお目玉を食らって二軍キャンプ行きを命じられる。

最近の春季キャンプは初日から「臨戦態勢」といってよいだろう。

春季キャンプではロマンスも生まれた。

1956年の巨人キャンプでは、巨人の若手選手は練習が終わると明石市の有力後援者である伊藤悌氏の屋敷に招かれ食事をふるまわれた。そんな中にのちプロレスラージャイアント馬場になる馬場正平もいた。当時から2mと巨大な馬場は、出されたスリッパをはくことができなかった。それを見た伊藤氏の娘、元子さんは馬場のために巨大なスリッパを作ってプレゼントした。

それがきっかけで馬場と元子さんは交際を始め、結婚した。馬場元子さんはジャイアント馬場を生涯にわたって公私で支える伴侶になったが、そのきっかけは春季キャンプだったのだ。

今年のプロ野球春季キャンプは、ほぼ無人で行うことになりそうだ。あまりにも寂しい始動だが、来年にはいつものにぎやかな「球春」が戻ってきてほしい。

  • 広尾 晃(ひろおこう)

    1959年大阪市生まれ。立命館大学卒業。コピーライターやプランナー、ライターとして活動。日米の野球記録を取り上げるブログ「野球の記録で話したい」を執筆している。著書に『野球崩壊 深刻化する「野球離れ」を食い止めろ!』『巨人軍の巨人 馬場正平』(ともにイーストプレス)、『球数制限 野球の未来が危ない!』(ビジネス社)など。Number Webでコラム「酒の肴に野球の記録」を執筆、東洋経済オンライン等で執筆活動を展開している。

  • 写真共同通信社

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