石井館長が振り返る、格闘技の「歴史」「現在」「未来」 | FRIDAYデジタル

石井館長が振り返る、格闘技の「歴史」「現在」「未来」

石井和義×細田昌志 特別対談

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昨年10月の刊行以来、各方面で反響を呼んでいる長篇ノンフィクション『沢村忠に真空を飛ばせた男/昭和のプロモーター・野口修評伝』(新潮社)。今回、その重版出来を祝して、主人公の野口修に次ぐ格闘技界のプロモーターとして時代を彩り、本書にも貴重な証言者として登場するK‐1創始者・正道会館館長の石井和義氏と、著者の細田昌志氏の特別対談が実現。

話題は主人公野口修の魅力から、黎明期のキックボクシング、往年の大山倍達と極真空手、昭和から平成にかけての格闘技興行、さらに師走を騒がせた「大晦日格闘技」にまで及んだ。

東洋王座を奪い返した三迫仁志と野口修ほか野口拳闘クラブの仲間たち

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──現在、巷で『沢村忠に真空を飛ばせた男/昭和のプロモーター・野口修評伝』が話題になっているということで、「K‐1」生みの親で、正道会館の石井和義館長と著者の細田昌志さんの特別対談を企画しました。

石井館長はこの本にも証言者として登場されていますが、主人公・野口修の次の世代の格闘技プロモーターにして、平成の格闘技興行を支えた第一人者。その辺りのお話しも伺えればと思います。まず、本を読まれた率直な感想をいただけますか。

石井 いや、もう……素晴らしい大作でしたよ。本当に素晴らしい。あんな分厚い本なのにめちゃくちゃ面白かった。しかし、大変だったでしょう。執筆に10年かかったの? よくやりましたよ。

細田 ありがとうございます。館長のツイッターを見ていたら「『姫』に行ってみたかった」ってツイートされていて、「あ、これは銀座の山口洋子の箇所を読んでいるんだ」と勘付いたりして(笑)。

石井 だって銀座の名クラブと言われた「姫」には行ってみたかったもん(笑)。いわゆる、銀座の全盛期というのを僕は知らないし、僕が東京に来た90年代以降ってバブル崩壊の後だったから。銀座で豪遊って感じでもなかったしね。それと、本書の中に安井かずみさんが登場したのも驚きました。僕、大好きなんですよ。

細田 それは館長がジュリーのファンだったからですか?

石井 いやいや、彼女の書く詩の感性が素晴らしくて。それに70年代って、彼女を中心に流行が生まれた時代があったでしょう。吉田拓郎とか沢田研二とか、とびきりイケてる人が彼女の周りに集まっていた。……僕も安井さんに会ってみたかったねえ。

細田 あの辺りの記述は、当時の野口修が、そういう華やかな業種も含む他分野とも関わっていたということで、門外漢でも頑張っていたことを描きたかったんです。

石井 まあ、華やかな世界に乗り出していく野口さんも魅力的だけど、キックボクシングを立ち上げる場面は、読んでて身につまされました。「大変だったろうなあ」と思って。だって誰もやったことないんだもん。「キックボクシングを創った」ってみんな簡単に言うけど、それまでなかったものですよ。結構キツかったと思う。人の面でもお金の面でも。

細田 館長も野口修と会われているとか。

石井 何度か一緒にお食事をさせていただきました。「とても優しい方」という印象ですね。

──ところで「タイ式ボクシング対大山道場」のくだりで、「この一戦が、日本のプロ格闘技のはしりだった」と石井館長は証言されています。それをプロモートしたのが主人公の野口修。そこから大山道場が極真会館へと大きく変貌を遂げていくわけですが、極真空手に入門された館長にとっても、このあたりの記述はなかなか興味深かったのではないですか?

石井 もちろん、自身のルーツとも関係して来ますから。そこで思うんだけど、あの時点では大山道場って、いまと比べればまだ無名だったでしょう。でも、人材は揃っていた。中村忠さん、大山茂さん、大山泰彦さん、藤平昭雄さん、芦原英幸先生……。そしてそれを束ねる黒崎健時先生。

細田 人材の宝庫ですよね。

石井 まさにそう。「世に出よう出よう」というマグマが沸騰して爆発寸前だった。だから何かのきっかけがあれば、一気にドーンって行ったと思うんですね。

細田 それがあの対抗戦だった。でも最初、野口修が出場を想定したのは大山道場ではなくて、別の実戦空手の他流派でした。もし、そっちが実現していたら歴史も変わっていたと思いますか?

石井 変わっていたでしょう。でも、彼らは受けなかった。誤解してほしくないのは、良い悪いの話じゃないんです。「流れ」があるんですよ。その「流れ」に大山先生は乗った。「受けざるをえなかった」って書いてあったけど、そういうのも含めて「流れ」。つまり、時代が大山道場を求めていたわけでね。

細田 そう思うと「大山道場が対抗戦に出場しなかったら」と想像すること自体がナンセンスなのかもしれません。

石井 仮の話をしても仕方ないんだけど、もし、あの話に大山先生が乗らなくても、極真空手は世には出ていたでしょう。大山先生って戦略家だし、営業マンでもあったし、豊富な人脈もあった。ただ、今とは違う発展の仕方にはなったとは思うわね。

大山道場とタイ式ボクシングの対抗戦を「キックボクシング発足」と報じる当時の週刊現代

細田 対抗戦を契機に野口修はキックボクシングを船出させたわけですけど、極真空手にとっても、タイ式ボクシングとの出会いは大きかったと思うんですが。

石井 それはもちろん。例えば「ローキック」という概念をそこで得たんだもの。私は、あれこそ「空手とムエタイの初めての融合」だったと思うんですよ。そこから大きな渦が巻いて『空手バカ一代』が生まれて、そのエネルギーがプロレスまで巻き込んで「ウィリー対猪木」の一戦にも発展する。そしてUWF的なものも生まれた。エネルギーは伝染していくものだから。

細田 格闘技の歴史を語る上で梶原一騎の存在は大きい。野口修とも『キックの鬼』で関わっていますが、対抗戦が実現していなければ、梶原一騎がここまで「格闘技」に傾倒したかどうか。

石井 梶原先生があのタイミングで大山先生と深く関わらなかったら、逆に極真はプロ化に一気に突き進んだかもしれない。というか、案外普通のプロ興行団体になった可能性もあるよね。

細田 たしかにあの直後の大山倍達は、野口修と一緒に興行会社をやろうとして、仲違いした後には、NET(現・テレビ朝日)と組んで「ワールドキック」を旗揚げしたりしていますからね。

石井 それって明らかにプロ団体でしょう。『空手バカ一代』の前ですからね。山崎照朝さん、添野義二さん……。

細田 お二人とも、ワールドキックの旗揚げ連続興行でタイ人と戦っていますしね。

石井『空手バカ一代』が始まったのは、その後だからね。そしたら「武道空手」のイメージが一気に定着した。思いのほか反響が大きかったので、大山先生もそれに乗った。それまでは柔道の敵役だった空手が陽の目を見た。つまり梶原先生の作った一連のストーリーに関連して、「全日本大会」も「世界大会」も開いたんです。だから極真空手にとって、梶原一騎って大功労者ですよ。

細田 改めてそう感じます。大山倍達自身は、所々でプロへの色気を見せますよね。大塚剛のプロ空手のときも……。

石井 あのときも極真の道場生出してるよね。その後の「ウィリー対猪木」だって大山先生がやらせたんだし……。でもまあ、そういう一連の歴史を振り返ってみても、1964年のムエタイと大山道場の対抗戦はエポックな出来事だったと思いますね。

──そこから、野口修はキックボクシングを立ち上げます。そして沢村忠で大ブームを起こす。館長は「当時は空手一筋。沢村忠には興味なかった」と証言されていますが、実際にそうだったんですか?

石井 キックボクシング自体は好きでしたよ。「面白いなあ」って思っていたから。でもそれは下の選手の試合。沢村忠の試合は「いやいや、真空飛び膝蹴りはないやろ」って思った(笑)。しかし下の選手はガチンコで、上の選手の試合は作るって、よう考えたなあ。その辺りの野口さんのセンスもすごい。

細田 たしかに(苦笑)。

石井 実は僕も「キックボクシングをやろうかな」って思っていた時期があるの……。というより、僕が入門した当時の極真芦原道場って、顔面ありの組手をやっていたんです。実際その前から大山道場自体が、組手は素手で顔面ありだったので。「先輩がグーでいったら後輩はパーで返す」という時代で。

細田 そうだったんですか。

石井 師匠の芦原先生が、当時キックボクシングの影響を受けていたから、宇和島の田舎でグローブの練習はすでにやっていました。「演武会」と称してキックの大会をやったとき、高校生の僕も出ているもの(笑)。

細田 初耳でした。その後のグローブ導入の素地はすでにあったんですね。では、極真の本体もグローブありのルールになる可能性は大いにあったということですか?

石井 ありました。でも、やらなかった。じゃあ、何故やらなったかというと、第一回の全日本大会がきっかけ。

細田「怪我人が増えたら、トーナメントが成立しなくなるから」ということでしたっけ?

石井 そうです。では何故「顔面打ちはなし」「パンチあり蹴りあり」という今のルールに落ち着いたかと言えば、おそらくテコンドーの影響はあるでしょう。

細田 ああ、確かに。

石井 テコンドーのハイキックの華やかさもあるし、瞬間的に掴んで倒したり引っ掛けたりする空手の武道らしさも残して、それであのルールが完成したんです。

細田 そう言われると、初期の全日本に出場した選手と、その次の世代の選手とではスタイルが違うような……。

石井 確かに違うよね。最初の第一回全日本大会のときの、山崎照朝さんも添野義二さんも、みんなガードが高い。あれは顔面を想定した稽古を積んでいるから。蘆山初雄さんとか大石代悟さんもそう。

細田 その後の世代の中村誠さんとは明らかに違いますね。三瓶啓二さんとかも。

石井 誠さんも三瓶さんも顔面なしのルールを熟知しているから、おのずと戦法が違ってきます。いずれにしても、往年のキックボクシングの影響って、初期の極真空手も無関係ではなかったことになりますね。

──さて、ここからは「プロモーター石井和義」としてのお話も伺いたいと思います。野口修は昭和の格闘技プロモーター。石井館長は平成を代表する格闘技プロモーター。野口修が「キックボクシング」を創り上げたように、館長は「K‐1」を創り上げました。プロモーターとしての出発点は、いつくらいからだったのでしょう?

石井 出発点なんて意識したことないです。興行を打つなんて想像もしていない。正道会館を立ち上げて、初めて全日本大会を開いたときは「やる以上は極真よりも盛り上げたいなあ」ってことだけ考えていた。それで『少年マガジン』に広告を載せたり、出来るだけテレビに出て宣伝したら、府立体育会館から難波の駅まで、行列がずらーっ……。そこから毎年満員にしていったんです。

細田 その段階から「満員伝説」を創ったんですね。でも「プロ化」みたいなことは意識しなかったんですか?

石井 そこまで大それたことは考えてないの。ただ「プロがないと、アマチュアだけじゃあ駄目だなあ」という漠然とした思いはありましたけど。

細田 それで第七回大会からリングを導入して、興行色を強めていったわけですか?

石井「興行色を強める」というより「最強」を求めていったら自然と「世界中の強いやつを呼ぼう」ってなるでしょう。それでもまだ「空手の大会」のイメージですよ。

細田 それでも注目度は高まりますもんね。当時、僕も高校生でしたけど、「正道会館っていう流派は他と少し違うなあ」という印象を持っていました。館長も『勝つための空手』(ベースボール・マガジン社)を上梓したり「佐竹雅昭対ドン・中矢・ニールセン」とかありましたしね。

石井 あれも全日本キックから話が来たんで受けただけ。僕らは逃げないんでね。話が来たら、とりあえず出来なくても「やります」「出来ます」(笑)。

細田 そうだったんですか。

石井 見切り発車。だって、それまで佐竹もグローブの練習はやってないんですよ。それでも「やります」「なんとかします」でOK(笑)。

細田 受けてから考えると?

石井 それでええねん。そんな「準備が……」とか言うてたら、何も出来ないもん。だって大山道場だってそうだったわけでしょう。それまで大山道場は人材は揃ってはいたけど、グローブの稽古は積んでなかった。でも、大山先生も受けたじゃないですか。野口さんに言われて「じゃあ、受ける」と。

細田 たしかに、あの場面は受けない選択をするのが常識的な場面ですよ。

石井 そういう「火事場の馬鹿力」って馬鹿に出来ないです。切羽詰まったら「なんとかせんと」っていうパワーが生まれるしね。

細田 そこに「期待に応えよう」という意識はなかったんですか?

石井 それは一切ない。だって細田さんだってそうやん。「野口さんの本を書く」って決めて、最初は人の期待に応えたわけじゃないでしょう。「僕が書く」と決めたから書いた。孫(正義)さんだってそう。ソフトバンクを起業したときに、人の期待がどうこうは、おそらくなかったはずです。

細田 その過程の中で「K‐1」が出て来るわけですね。

石井 やり続けていったら、結果的に大きくなりますからね。そこから「グローブをはめてヘビー級が真剣勝負で殴り合う」という世界観が出て来たんです。

──そうして格闘技プロモーターの第一人者となった石井館長ですが、近年の格闘技界についてもお聞きしたいと思います。大晦日の格闘技興行も定着して久しいのですが、思えば年末恒例となっていた「K‐1」の東京ドーム大会がある意味、伏線だったんじゃないかなと思うんですが。

石井 伏線というか……まあでも「一年の最後に東京ドームで締める」というのは理想形ではありますよね。いくら「地方分権」って言ってもマスコミもメディアも中心は東京。それでドームって特別な場所でもあるし。

細田 それが「年末格闘技」というイメージが定着した一つの要因である気もしますね。そうこうしていたら、年末どころか「大晦日格闘技」になりますが、あれも館長は最初から関係しているんですか?

石井 最初は猪木さんがMBS(毎日放送)と組んで「イノキボンバイエ」ってプロレスの大会を開いたのが最初なんです。2000年だったかな。

細田 ありましたね。「桜庭和志対ケンドー・カシン」とか「橋本真也対ゲーリー・グッドリッジ」「小路&宇野対サスケ&松井」なんていうのもありました。

一世を風靡したK-1(写真は01年、マーク・ハントとフランシスコ・フィリヨの一戦、AFLO)

石井 それがあったもんだから、僕も次の年の夏に「猪木軍対K‐1軍」って企画を日本テレビに持っていった。そしたらわりと好評だったので「それを大晦日でどうか」って提案したんだけど、日テレはそこまでは乗らなかったんです。

細田 で、それをTBSが引き取るわけですね。伝説の「安田忠夫対ジェロム・レバンナ」。

石井 あれが大成功したもんだから、2002年もTBSでやったのよ。2年連続で。そしたら問題の2003年がやってくるわけです(笑)。もう18年も前? 今はもう水に流してるけど、いろいろあったよね。

細田 本当に流れてますか?

石井 流れてる(笑)。榊原君のことも応援しているしね。彼は非常に優秀な男ですよ。プロフェッショナル。大晦日も「たまには顔くらい出せ」って言うもんだから、大阪から車飛ばして行って来ましたよ。

──石井館長も大晦日の「RIZIN」は観戦されたとのことですが、いかがでしたか?

石井 なんといっても榊原君は「可能な範疇で最高のことをやっている」って思いました。もちろん、あの世界観も含めてね。ただ、「総合のルールは金網がいいかな」とは思うんですよ。そこで思ったのは、昔「K‐1」で、UFCルール「キモ対パトリック・スミス」ってやったんです。

細田 ありましたね。チケット完売しているのに組んだ例のやつ。

石井 あのとき、金網を上から吊るしたんです。それで終わったら上に上げて、その後はK‐1ルールの試合をやった。あれと同じで上に吊るしとけばいいのに。それで総合ルールのときは下ろす。キックルールになったら音楽でも流しながら上に上げる。これがいいと思うんだけどなあ。

細田 なるほど。館長に改めてお聞きしたいのは、やっぱり“神童”那須川天心のことです。彼をどう評価されていますか?

石井 いやあ……あの子は、本当に神の子かもしれんね。天才というか、可能性の塊というか……。キックも「残り何戦」とか言われているけど、まあ仕方ないよね。ボクシングに行くんでしょう。動くお金が違うし。

細田 これは僕個人の希望ですけど、タイ式の王者になってほしいんです。ラジャでもルンピニーでもいいので、本場のスタジアムを制して、そこからボクシングに行ってほしい。サーマートみたいに。

石井 いやあ、今はその時代じゃないでしょう。マーケットがないからね。だって井上尚弥がウン億円稼いでるかどうかって時代に、那須川くらいの才能があれば「同じくらい稼げないとおかしい」って思うもん。今の時点でも世界ランカーくらいの実力はあるんじゃないかな。

細田 ああ、確かに。

石井 ファイトマネーについて詳しくは知らないけれど、ボクシングのトップ選手に比べれば低いわけで、「あれだけの可能性があるのに少ない」って僕は思う。

細田 今が絶頂期でしょうしね。その時期にベストな選択を考えたら、ボクシングということになるんですかね。

石井 帝拳の本田会長も考えているでしょう。その辺は僕も楽しみにして見続けたいと思います。……しかし、面白いね、こうやって話すの。これユーチューブも同時でやったらもっと面白いよ。

細田 じゃあ、僕も2021年はユーチューブを始めたいと思います。

石井 いやいや、どうせやるんだったら、個人でやるんじゃなくて『FRIDAY』を巻き込んでやるんですよ。「FRIDAY格闘技ユーチューブ」とかいって。「細田昌志プロデュース」でやったらええねん。僕も協力するんで、やってえな。

細田 たしかにそれは、面白そうなことになりそうですね。

石井 さっきの那須川天心の話じゃないけど、その方が反響が大きいでしょう。メディアを巻き込まんと。あんな素晴らしい本を書いたわけだから、回収していかんと(笑)。

細田 また生々しい(笑)。

石井 いや、だってね、終わったことは終わったことですから、それをどう生かしていくかじゃないですか。でしょう? メディアと一緒に新しいことをやっていくのが大切なわけで。

細田 あー、それで「フジテレビ格闘技委員会」も出来たんですか?

石井 ああ、あれは、それ以外にもいろいろあって……ってそんな昔の話はどうでもよろしい!(笑)。

細田 すみません!

石井 昔のことはもうええねん。新しい年なんだから、これからは先の話をしましょう(笑)。

細田 未来ですね!

石井 そう。終わったことはどうでもいい。大事なのは未来。だって、僕たちには「今」と「未来」しかないんだから!

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