2代目ボーカルが明かす『第3期WANDS』解体とジャニーズ時代
00年のグループ解散後、初のインタビュー
「第3期解体を事務所から言い渡されたときは正直、すごくホッとしました。活動していた3年間は常にプレッシャーを感じていたので、寂しさよりも『ようやく解放される』という安堵の気持ちのほうが大きかったんです」

’90年代に、『世界が終わるまでは…』『時の扉』などの代表曲で人気を博したロックバンド『WANDS』。その第3期(’97~’00年)に2代目ボーカルを務めた和久二郎(50=本名・松元治郎)が本誌の取材に答え、そう語った。
元ジャニーズJr.という経歴を持つ和久は、’97年に『WANDS』に加入。’00年のグループ解体後はバーのオーナーを務めつつソロ歌手としても活動し、現在は会社員として働いている。そんな彼が今回、グループ解体から20年以上の時を経て初めて、自身の半生について語った。
和久が芸能界に足を踏み入れたのは15歳のときだった。
「高校を半年で中退して燻(くすぶ)っていた頃、何かやりたいという思いからジャニーズ事務所に履歴書を送りました。オーディション会場には100名ほどの受験者がいたんですが、その中でジャニー喜多川さんが僕だけに、『YOU、この後ご飯食べよう』と声をかけてくれて、そのままジャニーズに入所することになったんです」
ジャニー氏の期待を受けた和久は’87年、『SMAP』の前身である『スケートボーイズ』の結成メンバーとなる。
「当時のメンバーの中では、2歳下の中居正広くん(48)と一番仲が良かった。コンサートでホテルに泊まるときなんかは、よく彼が『一緒に話そう』って僕の部屋に来てくれていたんです」
ジャニーズJr.のエースとして活動していた和久だが、デビューは叶わなかった。20歳のときにジャニーズ事務所を退所した彼は、運送業で働き始める。
「あるとき、職場の仲間とカラオケに行くと、仲間が『治郎君、歌手になれるんじゃないですか?』って言うんです。僕自身、歌うことは好きでしたし、ここで終わりたくないという思いもあったので、一念発起して自己流で歌の練習を始めました。喉に血豆ができるくらい毎日歌を歌っているうちに、ある日これまで出たことのない高音が出るようになったんです。それで、勇気を出して『WANDS』が所属する事務所のオーディションを受けることにしました」
このオーディションが、後に和久の人生を大きく変えることになる。デモテープを送ってから数ヵ月後、事務所から突然、「『WANDS』の次期ボーカルにならないか」と持ち掛けられたのだ。
「反射的に断りました。当時、『WANDS』といえば、ミリオンセラーを連発する国民的なバンド。重荷ですし、できるわけないと思ったんです。でも、社長に説得されてデビューすることになりました。嬉しい気持ちもそりゃ少しはありましたけど、とんでもないことになってしまったという焦りがほとんどでしたよ」
こうして自らがまったく予想していなかった形で、26歳にして和久は再び芸能界に舞い戻ることになる。ギターの杉元一生(48)、キーボードの木村真也(51)とともに始動した第3期『WANDS』は好調なスタートを切った。’97年9月発売の1枚目のシングル『錆びついたマシンガンで今を撃ち抜こう』はオリコンデイリーチャート1位を獲得。前作を上回る20万枚の売り上げを記録した。活動は順調そのものに見えたが、4枚目のシングル発売前にある問題が起こる。
「初めて音源を渡されたとき、『他にいい曲があるのに、なんでこの曲なんだろう』と感じたんです。メンバー3人とも、同じ気持ちだった。きっと事務所の方針だったのでしょうが、当時、僕らが意見を言える場もなかったので、そのままあきらめてCDを出しました」
和久が違和感を覚えた通り、4枚目のシングル売り上げは前作の11万枚超から大幅に減少し1万5000枚。その直後、『WANDS』は事務所から解体を言い渡される。
だが、和久のそのときの感想は、前述したように「ホッとした」というものだった。
「後悔は一つもありません。『WANDS』のメンバーとして活動できたことにはとても感謝しています。実は’19年に『WANDS』が再結成した際、当時のディレクターから『今度歴代のボーカル3人でステージに立ってよ』と言われたんです。冗談だと思いますけどね(笑)」
これまでのボーカル全員が揃う――そんなファンにとって夢のような舞台が、いつか実現するかもしれない。




『FRIDAY』2021年2月19日号より
撮影:濱﨑慎治(1枚目)、本人提供(2~5枚目)