「手のひらを太陽に」誕生60年 アンパンマン原作者の作詩秘話 | FRIDAYデジタル

「手のひらを太陽に」誕生60年 アンパンマン原作者の作詩秘話

国民的童謡は意外なシチュエーションで作られた

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2003年、CDデビューの記者会見で歌を披露するアンパンマンの作者、やなせたかしさん。当時84歳でも新しいことにチャレンジした(写真:共同通信)

国民的童謡のひとつ、『手のひらを太陽に』は1961年に発表され、今年で60年目を迎えた。60年代に紅白歌合戦で歌唱され、今では小学生の音楽教科書にも掲載されている。

作詩は『それいけ!アンパンマン』生みの親、やなせたかし氏(2013年逝去・享年94)、作曲は「見上げてごらん夜の星を」など1万5000曲以上を世に送り出した、いずみたく氏(1992年逝去・享年62歳)で、この2人が初めてコンビ組んだ楽曲だった。誕生に至る秘話を聞けばきっと、コロナ禍の苦しい状況下で、踏ん張り続ける人達に向けた応援歌にも聞こえてくるだろう。

漫画家として「食えない時期」にできた

「♪ぼくらはみんな生きている 生きているから歌うんだ

すんなり入ってくる詩と、アップテンポなリズムは耳から離れない。多くの歌手がカバーしている歌としても有名だ。いずみ氏に師事をした作曲家・編曲家で、プロデューサーとしても活躍する近藤浩章氏は、作詞家やなせ氏と作曲家いずみ氏のコンビを1976年からそばで見続けてきた。

「でも今では、誰が作詩をして、作曲は誰か。知らない方も多いのではないでしょうか。私も初めて聞いた時はそうでした。40年近くお二人のそばで仕事させてもらってきましたが、お二人はお互いを尊敬していました。

やなせ先生は、歌のイメージとは全く違い、苦しみの真っただ中で書かれた詩だと聞いています。いずみは子供だけではない、大人も歌える歌にしようとして書いた曲です。いろんな背景が結びついて命を持った歌だと思います。誰が作ったか、多くの方はわからないけれどもみんなが歌っている。それこそ、歌のそのものの力です」

「♪手のひらを太陽に すかしてみれば まっかに流れる ぼくの血潮…」

歌だけ聞いたら、希望を感じさせるイメージしか出てこないが、実際はやなせ氏自身が『食えない時代に作った詩』だという。

「やなせ先生はオファーが来た仕事を断らない性格でしたので、舞台の構成からジャケットのデザイン、ありとあらゆるお仕事をされていましたが、ご本人は漫画家一本で生きていきたかった。でも漫画家としての仕事がなかった。その頃、ご自分は元気がなくて、暇で、いつも寂しくて‥夜中に懐中電灯を手に当てたりしていると涙が出そうになったと言っておられましたね」(近藤氏)

その当時、9歳年下の手塚治虫が台頭。漫画家としての代表作がなかったやなせ氏はますます肩身の狭い思いをした。仕事はなくても徹夜で詩を書いたりしていないと取り残された気持ちになる日々だった。

「♪ミミズだって オケラだって アメンボだって
 みんなみんな 生きているんだ トモダチなんだ」

ミミズ、オケラ、アメンボ…ほかの生物に比べると目立つ存在ではない。それを詩に書きこんだことは、日の当たらない生物を当時の自分に重ね合わせていたのだとも受け取れる。近藤氏が振り返る。

「『コンちゃん、ある夜にね、仕事の合間に、手のひらに懐中電灯を透かしてみたら、血管がものすごく元気に流れていたんだよ。自分の心は沈んでいても血は元気だ!血の流れを見て『生きているんだ!』とつくづく思った。

だからこの曲は『手のひらを太陽に』ではなく『手のひらを懐中電灯になんだ』と、笑わせてくれました。ミミズ、オケラといった生物に目がいくのはやなせ先生の優しさだし、間違いなく、辛かった時の自分を励ます意味で書かれたはずです」

やなせたかし氏(左)といずみたく氏。「手のひらを太陽に」で結成された名コンビは名曲を作り続けた(写真提供:やなせスタジオ)

「あまり気に入らなかった」曲がブレイクした理由

『手のひらを太陽に』の詩が出来た頃、あるテレビ局から、宮城まり子さん(故人)を司会に起用したニュースショーの構成の依頼がやなせ氏のもとに届き、番組内の音楽も手掛けることになった。そこでやなせ氏がいずみ氏に作曲をお願いし、発表したのが1961年だった。曲作りを行う場合、詩をいじることはよく行われる作業。変えないことは稀だという。やなせ氏も「変えてくれていいよ」と言っていたが、いずみ氏はあえて変えなかった。

「いずみはやなせさんのことを『作詩家』とリスペクトしていましたね。「言偏(言べん)に司」と書く『作詞』は軽い歌のイメージで『作詩』とは違います。詩情あふれる言葉にこだわる。いずみはやなせさんのことを詩人だ、とよく言っていました。だから一字一句、てにをはでさえ変えていませんね」

この曲の詩はかなり哲学的なイメージがある。いずみ氏はあえてアップテンポなメロディーをつけた。

「これはバイヨンというリズムで作られています。ラテンのリズムです。あと子供たちのための曲という意識は一切持たずに、わざと洒落たリズムを使って作ったとも言っていました」

ニュースショーで流した反響はさっぱりだったが、翌1962年、NHKの『みんなの歌』に採用が決定したことが転機となった。

「ある日、文科省が唱歌のような扱いとしてと教科書で採用したい、と言ってきた。でもバイヨンという意味がわからないから、日本語で明るく楽しくという表記にしたそうです。教科書に載ったことによって、この曲が世の中に広がっていく入り口になりました」

この歌ができた当初、やなせ氏は「あまり気に入らなかったんだよ」と繰り返しもらしていたという。自身が全く売れない時代に作った詩なので、アップテンポというイメージがしっくりこなかったのだろうか。だが、いずみ氏は「詩が長かったので、ノリがいい曲にした方がいい」と判断し、現在まで愛されるメロディーになった。今思えば、スローなメロディーの「手のひらを太陽に」のイメージは全く湧いてこない。

「やなせ先生は『歌というのは不思議で、みんなに歌われ続けていくうちにどんどんいい曲になっていった』とトビキリの笑顔で仰っていましたね」

2人は「この曲が売れる」「すごい曲ができた」と思ったことは一度もなかったが、コンビ結成の最初の仕事で、最大の成功をもたらした。そして月に一曲ずつ「0歳から99歳までが歌える童謡を書こう」と約束。そして当時の人気月刊誌『詩とメルヘン』で200曲以上も発表した。

コロナ禍で明るい話題がない。これから何が起こるのか、どうなっていくのが誰もわからない時代になった。2011年の東日本大震災の時にもそうだったが、震災から4カ月後には、制作50周年を記念して、『手のひらを太陽に』を含む2人のコンビの楽曲を収録したCDブック『手のひらを太陽に50周年記念CD 生きているから歌うんだ!』が発売された。

地震や津波で被害を受けた人々の気持ちを奮い立たせた『上を向いて歩こう』とともに、『手のひらを太陽に』は世の中に求められた歌となっている。

1919年生まれのやなせさんには戦争体験があり、2歳下の弟が22歳の若さで戦死。「正義はある日を境に逆転する」「正義は国によってとらえ方が変わる」「その『正義のために戦う』という大義のもと、人が殺し合う戦争は絶対にしてはいけない」という思いが背景にあることと無縁ではない。実際、「それいけ!アンパンマン」でもアンパンマンの敵としてバイキンマンがいるが、殺されることは絶対にない。

「やなせ先生のテーマは生きるということです。生きていればこそ、笑ったり、歌ったりできる、そのことを確信しているような曲ですよね。自分を社会をみんなを元気付ける曲の存在は、とっても大事です。昭和36年にできた曲とはとても思えません。自分を慰めるために作った詩が時代を超えても変わらない“人生訓”にも聞こえる歌になった。まさに宝物です。これからも歌われ続けると思います」

『手のひらを太陽に』の曲がブレイクした時は40歳すぎ。歌が広く知られるようになっても、やなせ氏の名前が売れたわけではなかった。その後、『それいけ!アンパンパン』がブレイクした時は69歳。実に25年近い年月が必要だった。生前、やなせ氏は「60、70歳以降は殆どの人が余生になるもの。90過ぎてボクのスケジュール帳は真っ黒け。こんな人間はいないから幸せだ」が口癖だった。

どんな境遇に置かれても必死に明るく生きてきたやなせさんのリアルな生き様が詩にこめられているからこそ、時代を超えて愛されるのかもしれない。

1988年4月、地元の人らの寄付などで、旧香北町(現香美市)に「手のひらを太陽に」の歌詞を刻んだ碑が立った(写真:高知新聞社/共同通信イメージズ)

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