日本人初のテニス四大大会制覇 宮城淳さんが遺した「言葉」 | FRIDAYデジタル

日本人初のテニス四大大会制覇 宮城淳さんが遺した「言葉」

教え子が振り返る〜伝説のテニスプレイヤーの「素顔」

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「テニスというのは、生涯楽しめるスポーツです」

テニスプレイヤー、宮城淳さん(89)が、2月24日に亡くなった。

選手引退後は母校早稲田大学の庭球部監督を務め、2002年までは、学部の体育の授業でもテニスを教えていた。

筆者は1999年に早大に入学し、体育の授業で宮城先生からテニスの指導を受けていた。恩師・宮城淳先生の訃報に接し、涙が止まらないなか、原稿を書いている。

日本代表として快挙を成し遂げた宮城淳氏。2015年3月、早稲田大学で開催されたフューチャーズ大会の一コマ。最近までテニスコートに立っていた。享年89歳。左は筆者
日本代表として快挙を成し遂げた宮城淳氏。2015年3月、早稲田大学で開催されたフューチャーズ大会の一コマ。最近までテニスコートに立っていた。享年89歳。左は筆者

テニスは冷静さが求められるスポーツだ。それを体現するかのような穏やかな話し方、知的で、語学も堪能。確固としたテニス「哲学」を持っている姿に、授業の初回から魅了された。母に「テニスの宮城先生が素敵で」と話したら、「宮城・加茂の宮城? すごく有名な人よ」と興奮気味に教えられたのを覚えている。

宮城淳は、1951年から国別対抗戦デビスカップの選手に抜擢され、日本代表として活躍した選手だ。1955年には全米ダブルス選手権(現在の全米オープン男子ダブルス)で加茂公成と組み、日本人男子として初めて四大大会での優勝を果たした。大坂なおみより65年、松岡修造よりも30年以上前に、日本中を沸かせた名テニスプレイヤーだった。

初心者学生にもテニス哲学を説いた

大学の体育の授業には、初心者から熱心な経験者まで、さまざまなレベルの学生がいる。宮城先生はそんな学生を相手に「宮城哲学」をたくさん説いてくれた。

「本を読みなさい」「英語の勉強をしなさい」「アメリカ大統領選は見ましたか?」と、テニスに直接関係のない話でも、学生に必要な情報とその必要性を説いてくれた。面倒見がよく、相談をする学生には惜しみなく尽力してくださった。

とても純粋な面もあった。筆者がWEBに発表していたコラムで、先生について書いたときのことだ。メールで記事を知らせたが返事が来ない。ラブレターのような内容だったのでお気を悪くしたのかと危惧しながら授業に出てみると、「恥ずかしくて返事が書けなかった」とおっしゃった。

ダンディでクールに見えるが、情に厚い人でもあった。庭球部員の前で戦争体験を話したときは、感極まって涙を流されていたと聞いたことがある。愛妻家で、奥様とは7年間の文通ののちに結婚したという。

マナーに関しては大変厳しく、試合観戦中に相手のダブルフォールトについ手を打ったら「相手のミスに喜ばない!」とたしなめられたことがある。2007年に杉田祐一選手が早稲田大学に入学してきたときは「しっかり育てさせます」と請負った。杉田が2018年にホップマンカップで大坂なおみ選手と組んだ話をすると「彼女はすごく大きいね」と感嘆していた。テニスは身長が高いほど有利だ。彼女の恵まれた体格からも、活躍に期待していたのだろう。

錦織圭選手が2008年にデルレイビーチで優勝し、注目され始めたときには、ネットで試合を観戦し、とても喜んでいらした。現役を退き、指導の第一線から離れても、いつもテニス界を思い、後輩の成長を支援していた。

打ったボールが飛ぶ「素晴らしくいい気持ち」

最後にお会いしたのは、2018年のこと。ご自宅にお邪魔して話を聞いた。戦争体験の取材だった。世田谷の閑静な住宅街にあるマンションの一室で、約束の時間にインターホンを鳴らすと、ご本人が出迎えてくれた。「ちょうど今、自分史を作ろうと思ってね、書いているところなんだよ」と言い、終戦の激動の時代まで、思いを込めて話してくれた。

終戦時は旧制制度の中学2年生。田園調布のご自宅から麻布の中学校まで通い、通学途中に空襲を体験した。1945年に終戦すると学校で部活動が始まり、野球部に入った。テニスを始めたのは1948年、早稲田大学に入学してからだ。

ろくに物資も設備もない頃だった。

「ケバも生えていない使い古したボールでね、打ったらビューッと飛んで行っちゃうんだけど、それでも素晴らしくいい気持ちでさ。朝から晩まで練習したけれど、なにしろボールがよくないから、コントロールがよくなるわけ」

と笑った。

1950年代のテニス界、驚きの秘話

初めての海外遠征はインド。日本には、戦前から熊谷一弥、清水善造など世界で活躍するテニス選手がいたため、テニス界で一定の評価を得ていた。宮城さんが大学3年生のときにインドから招待があり、テニス協会からの推薦で、宮城、中野文照、加茂礼仁の3人がインドへ向かった。12月から3月までという長い日程だった。

「まだランキングシステムなんかない頃だったからね。3人選ばれて、インドに行きました。

カルカッタに、サウスクラブっていうイギリス人がやってたテニスクラブがあるんだけど、そのクラブがお金を出して我々を呼んだんです。でね、そこの大会に出たあとは、各地にいるマハラジャ(王族)に『日本人3人行かせるから』と紹介して僕らを『売る』んだよ(笑)。『日本からきた、トップテニスプレイヤー』として。オンボロの飛行機に乗せられてさ、言われるままにインド各地に行ったな。試合という興行ですよ。行く先々では、お城みたいな豪勢なところに泊まってね」

と、おかしそうに話してくれた。

長い遠征によって留年し、1955年に早稲田大学を卒業、ゼネラル物産に入社した。仕事をしながらテニスの練習に明け暮れる新入社員だった。入社した年の8月、全米選手権に出場、ダブルス大会で優勝した。

「3回戦に勝ったところで、ハリケーンが来たんだよ。雨で試合が何度も順延になったら、デビスカップの決勝戦の日程が近くなって、そっちの試合に出るためにトップ選手がいなくなってくれた。だから優勝できたんです。運がよかっただけで、ちっとも嬉しくなくてね」

と、謙虚に言う。けれども、喜びを実感したのは羽田に着いたときだ。

「今みたいな立派な飛行場じゃなくて、かまぼこ屋根の事務所みたいな建物がいくつかあるような空港でね。そこで飛行機のタラップから降りたら、2階建ての屋根に会社の役員が全員並んで待っていて、大変なお出迎えだった。会社に入ったばかりの新入社員にだよ、その時はちょっと嬉しかった」

早稲田の指導者時代は、ストイックで教育熱心な印象の強い宮城先生だが、意外なほど派手な一面もあった。

「その、全米からの帰国のときに、オーストラリアのルー・ホードとケン・ローズウォールを連れて帰ったんだ。それで昼間は田園調布や大阪でエキシビジョンマッチやって、夜は大宴会。加茂くんは三井物産の社員だったから、夜になると築地の大料亭に芸者さんをずらーっと並べて接待してね。その後は僕たちが赤坂のラテンクォーターとかの大クラブに連れていった」

愛車ルノーを運転して、会社が作ってくれたコートと会社、自宅の3箇所を回る生活だったという。当時マイカーは全国に2000台程度。かなりモダンでちょっとヤンチャな若者だったようだ。

話は尽きなかった。とくにテニスの試合の話になると、対戦相手や試合のカウントはもちろん、ポイントを取ったショットの展開など細かなところもまで、本当によく覚えていらして驚いた。昼過ぎにお宅にお邪魔して、お話が終わる頃にもう暗くなりかけていた。

生涯、テニスプレイヤーとして

帰り際、「最近はテニスをされていますか?」と聞くと「テニスらしきものはやっているけどね」と言う。「今度、是非一緒に」と誘ったら、「いやいや」と渋い顔をされた。

2002年に早稲田大学の教授を退職されたとき、「これからシニアの大会で世界を転戦する」と意欲を語っていた。

「世界には90歳の選手もいる。70歳の僕なんかまだまだ青二才だよ」

まだ89歳。後年は身体の痛みに悩まされていたようだ。今は天国で、大好きなテニスを思う存分楽しまれているだろうか。

先の大戦を越え復興していく日本で、テニス界にこんなプレイヤーがいた。のちに指導者として、多くの若者を導いてくださった。元日本代表・宮城淳さん。ご冥福を、心からお祈りいたします。

2011年、バラが自慢の自宅の庭で。遠征に出る前も「植え替えをしておかないと」と気にかけるほど熱心に栽培していた。最近まで、週に数回テニスコートにも立っていたという
2011年、バラが自慢の自宅の庭で。遠征に出る前も「植え替えをしておかないと」と気にかけるほど熱心に栽培していた。最近まで、週に数回テニスコートにも立っていたという
  • 取材・文和久井香菜子

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