漫画家に世界的スター「奇跡の一本松」保存に尽くした意外な人たち
陸前高田市とはあまり所縁がない有名漫画家や世界的スターたちが「奇跡」を「希望」に変えた
2011年東日本大震災で壊滅的な被害を受けた岩手県陸前高田市に「奇跡の一本松」がある。そもそも350余年前の江戸時代(享保年間)に7万本植栽され岩手を代表する防潮林だった。その後、多くの市民の手で「高田松原」として守り続けられ風光明媚な国立公園にも指定された。
しかし「3・11」ではこの7万本の松が「凶器」となって街を押し流した。そこで1本だけ残った松は「奇跡の一本松」として日本国内のみならず、世界から注目を集めた。その後、枯死してしまった一本松を陸前高田市では震災翌年の5月、1億5000万円の費用をかけて再生保存して復元することを決めた。被災者からも「なぜ、松を優先させるのか」という声があがった。
「一本松」を残すために大見得を切った
「松林はすべて津波で流された。でも一本残った松は希望が持てる木だった」。
復興の陣頭指揮を取ってきた陸前高田・戸羽太市長はこう話した。
「高田松原」はこれまで何度も陸前高田市を津波から救ってきた。しかし「3・11」では違った。想定をはるかに超える10メートル以上の津波が7万本の松林をなぎ倒した。その倒木がわずか4分間で街を壊滅させたのだ。怒りや憎しみをぶつけてもおかしくない、この1本だけ残った木の樹齢は270年。奇跡の一本松からは震災で壊滅してしまった陸前高田を今後も見つめていく…そんな意思さえ感じた。戸羽市長は続ける。
「あの頃、被災の現状よりも、一本松の話題ばかりが大きく取り上げられました。東日本大震災が起きなければ‥ あの奇跡の一本松が残らなければ‥陸前高田は誰も何も知らない街のままだったと思う」
震災の翌年、一本松は枯れることが確実になった。塩害により根こそぎ腐り始めたからだ。それに反して「奇跡の一本松」と名付けられたこの木は、日本どころか世界でも復興のシンボルとして有名になっていった。またプロアマを問わずにこの木をテーマにした絵や詩、など多くのエールが陸前高田市役所に送られてきた。他の被災地にはない、フィーバーが起きた。
この一本松の所有者は市ではない。この木のそばで崩壊した建物として残った「日本ユースホステル協会」の物だった。枯れるということは一本松がいつ倒れてもおかしくないこともさす。その全長27メートル、9階建てのビルの高さにもなる。万が一、日中倒れたら二次災害の危機もあった。
残すか、伐採するか。早い決断が必要になった。しかし戸羽市長は「一本松を残す」ことを早々に決めていた。
「私は何かを考える時、10年や20年後を考えなければいけない、といつも思っていました。時が経てば『そういえば3・11で大きな被害でしたね』『確か奇跡の一本松がありましたね』と‥。でも伐採すれば陸前高田という街自体も必ず忘れ去られる。そしてとてつもない被害があったことも……。だからこそ、絶対に忘れないシンボリックなものとして一本松を残したい。これこそ、未来の人たちにとって必ずためになる。そう考えました」
しかし、とてつもない難題が持ち上がる。
「一本松を残すには1億5000万円かかるという見積もりが出たんです」。
木の本体の幹をくり抜き強度なカーボンを入れて軸を作る。そして根、枝に対してそれぞれ違う復元作業を施す。かなり難しい工程でしか残すことはできないことがわかった。
「議会の中では枯れてしまうのなら伐採して、将来公共施設を建てる際の柱にしてはみては、という案も出ました」
バッシングも起きた。一部週刊誌は「一本松の復元は被災者無視の茶番だ!」と書きたてた。当時、陸前高田市民のおよそ4分の1が仮設住宅で暮らしている状態。ただ、仮にその1億5000万円を義援金として市民全員で分けても一人あたり、数千円しか手にすることができない。そこで多くの賛否が湧き上がった。
「1億5000万円を税金でやれば、市民の皆さんからは怒られますよ。だから議会で『税金なんか使いません。一本松を残すことに賛同してもらえる方々の寄付でやります』と大見得を切りました」(戸羽市長)
だが、そうは言っても高額だ。当時の副市長と「最後は俺たちで出すか。でも話にならない金額だね」と苦笑いしたこともあった。
全額寄付を申し出ていた故・やなせたかしさん
2012(平成24)年7月4日。様々な思いが交錯する中、寄付の募集が始まった。手始めにFacebook上で交流サイトを立ち上げた。戸羽市長自ら「奇跡の一本松には希望のメッセージがある」という言葉を添えた。募金活動を軌道に乗せるために著名人のメッセージも欲しかった。
関係者の紹介により、いの一番に訪ねたのが、アンパンマンの父・故やなせたかし氏(享年94歳・2013年逝去)のもとだった。そこで『アンパンパンが奇跡の一本松を助ける!』という企画も持ち上がったがやなせ氏が「それはできない」と固辞したという。
「東日本大震災では多くの街に大変な被害が出た。アンパンマンはたった一つの街を助けるわけにはいかない!でも、やなせたかし個人としてこの一本松を助ける」という思いからだった。
実はやなせ氏は当時、90歳を越えた自らの人生をこの一本松に投影していた。応援歌やイラストをノーギャラで描き、その収益をすべて寄付することを決めた。復元するために1億5000万円の費用がかかると聞くと「やなせ先生は全額私が出しましょう、と仰ってくれた。驚きました。でも、さすがにそれは遠慮させていただきました」(戸羽市長)。
全額寄付を申し出たやなせ氏は個人で1000万円を寄付。このことを機に、日本だけではなく世界から寄付が集まり始めた。大きな後押しとなったのは世界中からの応援メッセージだ。プロ野球界からは王貞治・ソフトバンクホークス会長、サッカー界からは震災で大きな被害を受けた大船渡出身の元日本代表MF小笠原満男さんらが寄付を呼びかけた。
市ではおよそ70人の世界的スターにも「一本松の寄付に関して共鳴したらメッセージが欲しい」と手紙を送った。すると2012年10月2日、映画「サタデー・ナイト・フィバー」(1977年封切)で一斉を風靡した米国人気俳優ジョン・トラボルタから返信が来た。「『奇跡の一本松救済プロジェクト』を支援してください」と英語で書かれた直筆のメッセージとプロマイド写真が入っていた。
一本松を復元するための募金は昨年3月31日に締め切った。件数は3949件、予定額(1億5000万円)はわずか1年で集まった。最終的には1億8827万8754円になった。
「奇跡の一本松」以外にも壊滅した市庁舎を「震災遺構」として残すか、どうかという問題もあった。陸前高田では津波が起きた際に市庁舎内に残った数十人が命を落としている。屋上に緊急避難した120人だけが助かった。戸羽市長もその一人である。遺族らが「市庁舎が残されても見たくない」という声が上がった。そこで陸前高田市は「1人でも不幸になるような復興はやらない」と、犠牲者が出た施設は「震災遺構」として遺さないことを決めた。
だからこそ、復元された一本松の存在は貴重だと言えるだろう。戸羽市長は「手を合わせて祈る場所がやっとできた」と思った。
昨年3月には、政府と岩手県の協力で一本松の所在エリアを含む「高田松原津波復興祈念公園」として生まれ変わった。東京ドーム30個分の広大な広さである。震災10年目となる3月11日には岩手県と陸前高田市合同の追悼式が開かれ、2022年には全国植樹祭の式典会場にも決まった。来年からは管理は国が行う。復元されてからも小首を傾げ、物思いにふけっているようにも見える奇跡の一本松。これからは世界に対して、震災についてのフィロソフィーを植え付ける「哲学の木」になっていく。