10年前の事故直後の惨状…福島第一原発「最接近ルポ」
東日本大震災から3月11日で10年――。観測史上最大のマグニチュード9.0の大地震は、高さ10m以上の津波を発生させ死者・行方不明者合わせ2万人近い犠牲を出した。
巨大津波は、太平洋沿岸にある福島第一原発(イチエフ)を飲み込み、未曽有の大事故を誘発する。震災翌日に原子炉建屋1号機が水素爆発を起こすと、3号機、2号機、4号機と次々に爆発。大量の放射性物質が、東日本の広範囲に降り注ぐ事態となった。
その約1ヵ月後、取材班はイチエフに接近し生々しい事故後の様子を目撃している。当時の現地ルポを振り返る――。
イチエフの正門から南に10分ほど歩いた場所に、ベンチが置かれた小高い丘がある。この丘から北方を望むと、生い茂る木々の向こうに異様な物体が見えた。(2011年)3月15日に水素爆発を起こした、4号機の巨大な原子炉建屋だ。その姿は、想像以上に無残だった。
折れ曲がった数十本の鉄筋、外部にさらけ出された黒焦げの内壁、大破した緑色の燃料棒交換クレーン……。内部の温度は、まだ相当高いのだろう。白煙が間断なく立ち上っている。
眼前に広がる生々しい光景に記者が言葉を失っていると、異変が起きた。隣でシャッターを押していたカメラマンが、いぶかしげにつぶやく。
「おかしい。カメラが、急に動かなくなってしまった……」
強烈な放射能がカメラを破壊

何が起きたのだろう。撮った画像も、モニターに映らない。近くに停めてあった車に戻り確認すると、カメラ本体は復旧したが、メモリーカードに保存されていた画像はすべて消えていた。当時取材した放射線の専門家は、こう解説している。
「原発から放出される強烈な放射能の影響で、カメラは破壊されたのでしょう。人間は0.4~0.8ミクロンの波長の光しか感じませんが、放射能は0.4ミクロン以下の目に見えない光です。当然、カメラは光を写します。人間が感じなくても、放射能のすさまじい光で画像が飛び、メモリーカードがおかしくなってしまったのかもしれません」
記者がイチエフへ向かったのは、(事故約1ヵ月後の)4月上旬。白い防護服に身を包み、防塵マスクをつけ、手には二重の手袋をはめた。すれ違う車のドライバーも、同様に防護服にマスクを着用している。現地で知り合った、原発作業員がアドバイスしてくれた。
「(イチエフから)20km圏内に入ると放射線量が多くなるので、車の窓はあけないほうがいいですよ。靴もビニールなどで覆ってください。地面に溜まった放射性物質が付き、靴の裏が汚染されてしまうんです。車外に出ても、必ず30分以内に戻ってください」
イチエフの正門につき、車を停め外に出て驚く。正門からわずか30mほどしか離れていない道路が、大きく陥没。東京電力の下請け会社のモノと見られる小型トラックが大きく開いた穴に落ち、取り残されているのだ。カメラマンが撮影していると、イチエフ内部から東電の社員らしき防護服姿の男性が飛んで来て叫んだ。
「撮影はダメ! 早く行って!」
近くにある丘の上から見た4号機の惨状は、前述の通り。原発からは微風が吹き、マスクごしでも薬品のような化学臭が漂っているがわかる。近くでドローンのような機械を飛ばしていた東電の社員が、記者に近づき警告した。
「どこの社か知らないけど、早く退避したほうがいいですよ。我々でさえ、この付近にどれくらいの放射性物質が出ているのか、正確にはわからないんだから……」
作業員の努力により、現在は事後現場の放射線量が格段に下がった。だが原子炉建屋内には、メルトダウンした核燃料が大量に残っている。記者が現地を歩いてから10年。作業は休みなく続いている。廃炉に向けた動きは、道半ばだ。


