10年目の「にこまるクッキー」~東日本大震災を忘れない | FRIDAYデジタル

10年目の「にこまるクッキー」~東日本大震災を忘れない

震災直後に、クッキーを作った理由、今も作り続ける意味

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「10年前、2011年の6月だったかな、初めて作りました。おしゃべりしながら、クッキーの生地をコロコロして。津波でアパートが流されちゃった人や、赤ちゃんと一緒に車ごと流された人と一緒に作りました。『にこまるクッキー』といいます。今年も焼きました」

震災から10年、作り続けている、手のひらでコロコロ丸めて作る「にこまるクッキー」。枝元なほみさんから始まり、宮城、福島へと広がった。レシピは変わっていない
震災から10年、作り続けている、手のひらでコロコロ丸めて作る「にこまるクッキー」。枝元なほみさんから始まり、宮城、福島へと広がった。レシピは変わっていない

仙台から車で20分ほど。宮城県利府町のパン工房「スピカ」の朝美さんは、今年も「にこまるクッキー」を焼いた。小さな円形のクッキーには、にこにこ顔が刻まれている。

「あの日は、朝から工房でパンを焼いてました。3時に焼き上がるように、最後の1セットがオーブンに入っていたので、急いで火を消したんです」

2011年の3月11日、朝美さんは利府町のパン工房にいて、地震にあった。

「最初は、あ、よくある地震だなと。でも、長いし、すごく揺れるし、これじゃ家が壊れる!と思って表に飛び出しました。近所の人もみんな道に出ていて、地面から家から電柱から揺れて、いつまでもいつまでもずっと大きく揺れていました」

焼き上がったパンを近所に配って

「幸い家は壊れなかったのですが、電気、水道、ガス全部ダメで調理ができない。焼いたばかりのパンがたくさんあったので近所に配りました。パンってそのまま食べられるから。ご近所からは、水や、お菓子が回ってきたりしました」

しばらくして、電気が通り、パンが焼けるようになった。

「パンなんて必要かな、パンなんて焼いている場合かな、瓦礫かいたりしたほうがいいんじゃないかと悩んだんです。そのとき妊娠していて、力仕事はできないし、パンを焼くと気持ちが落ち着くから、焼くことにしました」

仙台も、隣の石巻も大きな被害があって、たくさんの人が亡くなり、家を失った人たちは避難所で暮らしていた。スーパーは品薄で、移動のためのガソリンも品薄だった。

「歩いてこられるような近所の人が買いにきてくれればと思って、3月の末にお店を開きました。ストックしてあった材料で、焼けるだけ焼いてみようと。

そうしたら、4月に入ったころ、避難所から車で、3人の女性が買いに来てくれたんです。『避難所を代表してきました。救援の物資はほんとにありがたいけど、ちゃんとしたもの、おいしいものが食べたくて』って。ちょっとだけ、贅沢がしたいからって。なんか、胸がいっぱいになりました」

そのころ東京では、料理家の枝元なほみさんが、「にこまるクッキー」を作り始めていた。

「直接の被害を受けなかった私たちにも、なにかできることはないか、という思いから始まりました。被災した人たちと繋がりたくて、そして自分たち自身も落ち着きたくて、たまたまあった材料でクッキーを作りました」

と枝元さんはいう。

料理家の枝元なほみさんは、被災地と繋がること、震災を忘れないことを繰り返し語っている
料理家の枝元なほみさんは、被災地と繋がること、震災を忘れないことを繰り返し語っている

手のひらを使って生地を丸め、顔をつけて焼いたクッキーを被災した人たちに送った。

そして数週間が過ぎ、食糧や物資が被災地に行き渡り始めた5月の終わりごろ、東京から被災地へという方向を逆にして「被災した人たちがクッキーを作り、それを非被災地が買い支える」というプロジェクトに進化する。

泣きながら、クッキー生地を丸めた

「人づてに、枝元さんから連絡をもらって。仙台で一緒にクッキーを作りませんか、って。それで、仙台市内に場所を借りて、枝元さんがきてくれて、12~13人で一緒にクッキーを作ったんです。

参加してくれた人のなかには、家が流されて避難所にいる人がいました。『でも、亡くなった人もいるし、自分なんかよりたいへんな人もいるから』って言うんです。

ひとりは、生後1ヶ月の赤ちゃんを車に乗せて逃げているうちに津波に追いつかれて車ごと流されて。『どっかにひっかかって止まって、翌日、無事に見つけてもらった』と、泣きながら話してくれた。4か月になった赤ちゃんをおぶって、クッキーを丸めながら、そんな話をしました」

スピカの朝美さんと枝元さん。その後、にこまるクッキーは10年間作られ続けている
スピカの朝美さんと枝元さん。その後、にこまるクッキーは10年間作られ続けている

以来、年に何度か一緒にクッキーを焼いてきた。2016年の熊本の震災のときには、チャリティイベントを、地元・利府町の「tsumiki」とともに開催した。クッキーを作りながら「減災・防災」のことを考え、話す機会にもしている。が、昨年のコロナ禍。

「昨年は、3.11の前に集まったんですが、そのあと緊急事態宣言。にこまるクッキーはみんなでおしゃべりしながら作るものなので、1年間お休みしてました。ひとりで黙々と作るのは『にこまるクッキー』じゃないので。メンバーからも『無言で作ったら おいしくなくなるかもね』って(笑)。

でも10年目の今年、3月11日が近づいてきたら作らずにはいられない気持ちになって、感染対策をして3人で作りました」

にこまるを作り続ける意味

毎年3月になると、東日本大震災のニュースが流れる。震災のことを、被害にあった人、亡くなった人のことを忘れることはできない。今も行方不明の人が2526人いる。避難生活のまま、地元に帰れていない人も、たくさんいる。

仙台市の女性は「津波の衝撃映像より、今はないダイエーに食料を求めて並ぶ人々、といった個人的にリアルな映像がキツくてつらい」と話してくれた。

「ニュース映像を見るのはつらいんです。テレビを消してしまうこともあります。

地震のことは、クッキーを作りながら話して、地震がきたらどうする?って、子どもたちに伝えています。

最初は、被災した心が落ち着くように作ってました。いろいろ落ち着いた今、にこまるクッキーを作り続けている意味は、地震のことを忘れないで、水や食料の備えとか心の備えとかを考えるためもあると思います。あのとき、違うところから来て、違うことをしていた人同士が、手のひらでコロコロ丸めてクッキーを作ったんですけど、『にこまるがなかったらなにしてたかなー』って考えることがあります

あの日、車ごと流された赤ちゃんは、元気に10歳になった。朝美さんのお腹にいた子は、9歳。最近、学校で震災のことを学んだ。

「先週、急に『お母さんたちが作ってるにこまるクッキーは、私たちが継がないとね』と言ったんです」

スピカの「にこまる」はドライフルーツやココアを入れたアレンジも。どれも、丸い形に顔が入っている
スピカの「にこまる」はドライフルーツやココアを入れたアレンジも。どれも、丸い形に顔が入っている

にこまるクッキーは、朝美さんのパン工房のほか、被災者の仕事作りとして石巻や陸前高田、東京でも作られた。現在は、福島県・会津若松の障がい者福祉施設「コパン」で作った「にこまる」がオンラインで手に入る。レシピは、枝元さんが10年前に「あるもので作った」ときと変わっていない。

コロナ禍の今、人が集まって手のひらで丸めて作る「にこまるクッキー」は、ちょっとやりづらい。けれどもあのとき、コロコロすることで救われた心は、手から手へ繋がっていく。またみんなでおしゃべりをしながら「にこまるクッキー」を作る日が待ち遠しい。

にこまるプロジェクトのクッキーはオンラインでも購入できる。オリジナルのレシピは公開されている
にこまるプロジェクトのクッキーはオンラインでも購入できる。オリジナルのレシピは公開されている
宮城県利府町にあるパン工房「スピカ」はベーグルが得意。イベントにも参加するなど、県内外にファンは多い
宮城県利府町にあるパン工房「スピカ」はベーグルが得意。イベントにも参加するなど、県内外にファンは多い

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