あの事件から24年…慶大卒キャリア女性は、渋谷の路上で崩壊した | FRIDAYデジタル

あの事件から24年…慶大卒キャリア女性は、渋谷の路上で崩壊した

「東電OL事件」渋谷駅から道玄坂、現場アパートを歩くー亀山早苗レポート

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京王井の頭線、神泉駅の踏切を渡ったところに、今も、彼女が亡くなった現場のアパートがある。彼女はこの踏切を渡って「向こう側」に行くのが日課だった

1997年3月19日、渋谷の円山町のアパート1階の空き室で女性の絞殺死体が発見された。慶應義塾大学を卒業、東京電力に勤務していたキャリア女性が殺されたことで、世間の注目も集めたあの事件から24年。彼女はなぜ、あの場所で夜を過ごしていたのか。当時「彼女は私だ」と思った女性は少なくなかった。

四半世紀たった今も、女性の生きづらさは変わっていないのかもしれない。

ノンフィクションライター・亀山早苗氏が、事件の現場、渋谷・道玄坂からアパートを訪ねた。

あの頃、渋谷には「アムラー」と呼ばれる女の子があふれた。キャリア女性は今よりもっと珍しかった

2021年、もう一度、彼女の後ろ姿を追ってみた

山手線渋谷駅ハチ公口。ひたむきに待つハチ公の位置は変わったが、喧騒は変わらない。週末土曜日の夕方、緊急事態宣言のなか、ここは大混雑だった。

ミャンマー軍部に抗議して座り込んでいるグループ、「コロナは風邪です」と叫びながら人々をマスクなしで説得しようとするグループ、犬猫の殺処分ゼロを訴えかけるグループが広場に混在、スクランブル交差点を行き交う人々は、彼らを目の端に入れながら、信号のたびに大移動を続けている。いつもの渋谷の光景だ。

24年前のあの日も、彼女は「いつものように」ハチ公広場からスクランブル交差点を渡って渋谷109へ向かった。ここのトイレで化粧を濃く直すのが常だった。時に派手な服に着替えたりかつらをつけたりした。それはこれから戦場へ出向くための彼女の「武装」だったのだろうか。

109を出ると、道玄坂を上がっていく。私も、その坂道を歩く。だらだら坂で、若い女性たちのグループに追い抜かれる。

東京電力の社員だった「Y子さん」は当時39歳。そのころ渋谷では、歌手・安室奈美恵になりきったアムラーが闊歩、「援交(援助交際)」が流行語大賞に入るほど世間を跋扈(ばっこ)していた。渋谷の流行は、10代後半の女性たちが作っていた。

20歳も年若の女性たちを横目で見ながら、彼女はひたすら道玄坂を上り続けていったのだろうか。この道を上りながら、彼女は何を考えていたのだろう。

目を上げると、一心不乱に歩いていく彼女の後ろ姿が見えるような気がした。

廃屋のようなアパートで、彼女は殺された

1997年3月19日、午後5時過ぎ、東京渋谷・円山町のアパートの1階空室で、絞殺による女性の遺体が発見された。死亡推定時刻は3月8日深夜から9日未明にかけて。逮捕された容疑者はその後、冤罪とわかり、長きにわたる勾留ののち、母国に帰った。真犯人は見つかっていない。未解決事件である。

被害者の身元がわかると大きなニュースになった。彼女が、昼は東京電力に勤めるエリート社員だったからだ。慶應大学経済学部を優秀な成績で卒業して1980年に東電入社、同社初の女性総合職のひとりだった。

肩書きは、企画部調査課経済調査室の副長。同期の女性で管理職になったのは当時は彼女だけだ。そんな立場の女性が仕事終わりに、毎日のように渋谷・円山町で身を売っていたこともすぐわかった。世にいう「東電OL殺人事件」である。

彼女は、私かもしれない

事件を知ったとき、私は、大きな衝撃を受けた。言葉では表せないような、息が止まるようなショックだった。彼女は私だったかもしれない、私が彼女だったかもしれない。「共感」とは似て非なる苦い親近感である。

あのとき、同じように「彼女は私かもしれない」と思った女性は多かった。もうあまり若くはない女たちだ。

テレビや雑誌では「昼はまじめなOL、夜は娼婦」とこぞってあおり立てていた。数日後、私は彼女の遺体が発見されたアパートへ行ってみた。木造モルタル2階建て。ボロアパートには、まだ規制線が張られ、警察官も立っていた。彼らに不審な目で見られながらも、私はそのアパートの前に長い時間、佇んでいた。大企業に勤めて安定した高収入を得ながら、彼女は身を売っていた。そしてこのアパートの空き部屋になっていた一室で、誰にも知られず、10日間も横たわっていたのである。心の中で手を合わせるしかなかった。

あれから24年。事件のことを覚えている年代の人はあまりいないような週末の道玄坂。途中にある喫煙所では、若い男女がけたたましくしゃべりながら煙草を吸っている。

30代後半女性の焦燥

被害者は、39歳だったY子さん。そして私は36歳だった。今でこそアラフォーと呼ばれて40歳前後はまだまだ若く元気な世代だ。恋をしたり、結婚したり子どもを産んだりする人も珍しくない。だが、当時の40歳といえば「四十にして惑わず」などという古くさい観念がすぐ思い浮かぶような年齢である。

「女はクリスマスケーキ」と言われていた時代。25になったら売れ残る。24歳までに結婚しなければ、ということだ。だが実感として、私も含め四年制大学に進学する女性が多くなっていた時代に、22歳で大学を出て、24歳までに結婚するのは至難の業。私の周りでも、女性の多くは「30歳までに結婚」と望んでいた。

男性中心の大企業、東京電力で、20代を仕事に捧げた彼女が「夜の仕事」に入っていったのは31~32歳のころ。最初はスナックやクラブで働いていたという。その後、デリヘルやホテトルなどの風俗へ移行し、平日は立ちんぼをした。「立ちんぼ」というのは、店などに属さず、路上で男性を誘う売春のこと。週末は、午後からホテトルと立ちんぼをかけ持ちしていた。1日4人の客をとることを自身に課していたという。

エリート女性が、いったいなんのために?と思うかもしれない。けれども私には、その理由がなんとなく「わかる」のだ。彼女は私だったかもしれないから。

彼女が辿ったのは「誇り」が少しずつ削られていく物語だった

彼女、「Y子さん」は、1957年東京生まれ。父は東京大学を出て東京電力に勤めた。母は有名国立大学の教授の娘で、日本女子大を出ている。昭和4年生まれの母親が大卒というのはよほど「いいお家」だろう。彼女は、6歳年下の妹と4人家族で育った。

彼女は、父親に溺愛されて育った。高校から慶應に通う才女に、父は自分の後継者として、あるいは「長男のように」期待をかけていたという。

まじめだが決してとっつきにくいわけでもなかった彼女が変わったのは、東電の幹部候補だった父が、50代の若さで亡くなってからだ。彼女はまだ20歳だった。ふっくらしていた体つきはがりがりに痩せ、人を寄せつけない雰囲気をもっていたという。摂食障害に陥っていたという話がある。だが彼女は悲しみのなかで思っただろう。「私は父の行った道を追う」と。

東京電力に入社し、「亡き父の名を汚さぬようがんばります」と宣言したように、東電初の女性総合職、父娘二代にわたる社員として、東電に勤めていることを「異常なほど」誇りに思っていた。仕事をしながら、東洋経済新報社が主宰する民間経済学者・高橋亀吉賞に論文を応募して佳作に入選している。若き「美人エコノミスト」として注目される存在だった。

20代を、そうやって仕事に全力を傾けていたのだ。周囲の期待も大きかった。だが、1988年ころから彼女の様子は変わった。きっかけとして噂されているのが、85年に海外留学生を選ぶ社内選抜に通らなかったことだ。このとき、他の女性社員がひとり選ばれてハーバード大学に留学している。

彼女がその選抜を受けたかどうか定かではない。ただ、もし受けていたら、あるいは受けられなかったとしても「選ばれなかった」ことは、彼女にとって初めての大きな挫折だろう。1988年から3年ほどは、あるシンクタンクに「出向させられて」いる。それもまた、彼女の心に何らかの影響があったかもしれない。

彼女の経歴を見ていると、さまざまな「物語」が見えてくる。

総合職として入社したものの、女性の自分の実力が発揮できる社風ではなかった。東電は、少なくとも当時は古い体質の企業だった。総合職の女性を採用したものの、どう扱ったらいいかわからなかっただろう。

80年代は女の時代と言われ、同世代の女性たちは「男と同じように働く」ことが期待されていると感じ、バブル前夜の景気のよさも手伝って意気揚々と社会に出ていった。だが数年経てば、総合職といっても男性と同じようには昇進できないことがわかっていく。会社から求められるのは相も変わらず「女らしさ」だ。

一般職の女性からは、「お茶くみをしなくていいですね」「制服がなくていいですね」と言われる。せっかく総合職で就職しても、20代のうちに結婚して退職していった女性も多かった。もちろん、「飲み会を断らない女」として、職場から求められる従来の女性らしさと、男と対等に働くたくましさの両方を身につけてのし上がっていった女性もいただろう。だがそうするには、彼女は不器用で、まっすぐすぎた。

「父のようにはなれない」と感じた彼女は水商売へ、そして間もなく風俗へと流れていく。その後は論文を1本も書いていない。

道玄坂で、道に迷った

道玄坂を登り切る手前に交番がある。その裏手がいわゆる裏渋谷、奥渋谷といわれる円山町一帯だ。

地図で見るとわかりやすい場所のはずなのに、私はぐるぐると周辺を回っているようだ。ラブホテルの合間に、割烹や日本料理と看板を掲げた料亭がある。新しい店が増えてカフェや洒落た居酒屋も多くなっているが、ここに、300年も前から地域を見守ってきた道玄坂地蔵がある。彼女は毎日、この地蔵の前で客を引いていた。

渋谷から少し歩くと、こんな場所がある。過去と現在は地続きなのだと思い知らされる

その道玄坂地蔵を目指しているのに、一向にたどり着けない。もともと裏渋谷一帯は細い路地が多く高低差も大きい。一帯が段々畑のようになっているのではないかと思ったほどだ。さまよい続けて、広い道路に出る階段を降りていくと、そこは東京屈指の高級住宅街である松濤だった。これは衝撃だった。階段ひとつで、円山町とはまったく違う風景が目の前にあった。落ち着いた商店とその向こうに広がる静かな住宅街、空が一気に高くなった感じだ。

彼女の自宅は、杉並区の閑静な高級住宅街にあった。彼女自身もある意味「お嬢様」だ。だが、夜の仕事をするにあたって、彼女は間違ってもこの階段を降りはしなかったはずだ。松濤という、自身が生まれ育ったのと似たような場所に佇んでしまったら、彼女は客引きなどできなかったに違いない。生まれ育った地域や過去の記憶を思い出してはいけないのだ。夜を円山町でしか過ごせなかった彼女にとっては。

別の階段を上がって円山町へと戻る。さらにぐるぐると歩いて、さっき通った道だなと思ったとき、いきなり道玄坂地蔵が現れて再度驚いた。ホテル街と料亭に挟まれた場所に、お地蔵さんはすっくと立っていた。「私を探しているの?」という声が聞こえたような気がして背筋が寒くなる。私は「Y子さん」に試されているのだろうか。

唇に、紅がさされている道玄坂地蔵

「私とセックスしませんか」

道玄坂地蔵を背にして彼女は、通る人に「セックスしませんか」と声をかけていた。4万円のときもあれば、5000円、3000円のこともあったという。当時、年収1000万円だった彼女だから、「値段」はどうでもよかったのかもしれない。場所も、ホテルへ行く場合もあれば駐車場の片隅でということもあったらしい。とにかく1日に4人のノルマを果たすことが重要だったのではないか。

仕事を終え、会社のある新橋から山手線に乗って渋谷で降りる。18時半過ぎにはこの場所に立っていただろう。そして必ず終電に乗って彼女は自宅へと戻っていく。6時間足らずの間に4人と毎晩のようにセックスをする日々を送りながら、彼女は何を考えていたのか。

この町で奇妙な行動を見せる彼女については、いくつもの証言が残されている。たとえば、よくコンビニでビールを3本と漬け物を買っていた。ビールは大きな缶を1本と小さいのが2本。客とホテルに行くとまず大きいほうを飲み干すのが習慣だった。この妙なルーティンは何を意味するのか。

コンビニではおでんのこんにゃくを、必ず汁だくで買う。帰宅する終電内でその汁だけを,ごくごくと飲み干していたこともある。大小便を漏らすことから、あるラブホテルからは出禁になっていたが、それでもしれっとやって来る。

さらには逆両替も繰り返していた。道に落ちているビール瓶を拾って酒屋へもっていき5円で買い取ってもらう。その小銭が貯まると100円に、それがたまると1000円札に替えてもらうのだ。小銭を貯めて、現実として1枚の札になっていく過程が重要だったのだろうか。

客のことやその日の収支などは細かくノートにつけていた。まじめなところは最後まで変わらなかったのに、一方で一般常識とはかけ離れた行為を平然としてしまう心理はどこから来ているのだろう。

円山町を歩き回りながら、彼女は何を求めてこの町を這いずり回っていたのかと考える。いや、私は、これまで24年間、折々に彼女のことを考えてきたのだ。私の心のどこかに彼女がいるのかもしれない。

「潔い転落」という言葉が頭に浮かんだ。最も愛していたのに自分をおいて早世した父、母と妹のために家計を担いながら癒やされることのない家庭、自分を活かしてくれない会社、行き場のない社会、父のような愛情で包んでくれない世の中の男たち、そして何より思い描いていた理想にたどり着けなかった自分自身。

すべてに対して絶望と諦念しかなかった彼女がすがったのは、金を介在させてでも自分を必要としてくれる存在だったのではないか。リストカットなどと同様、彼女にとってのセックスは自傷行為に近いものだったのだろうか、あるいはあらゆるものへの復讐に近かったのだろうか。身を削りながら身を売っていた女。

在籍していた風俗店では、彼女がどんな客でも引き受けていたという証言がある。デリヘルで働く女性にとって、風呂なしの自宅に呼ばれるのは脅威なのだという。そこに呼ばれると誰も行きたがらない。なのに彼女は積極的に「私、行きます」と手を挙げた。

また、「チェンジ要員」として扱われていたという話もある。客に彼女を派遣する。がりがりにやせ細った彼女を見て、客は女性を替えてくれるよう店に電話をかける。店は「ノーマル価格の範囲では彼女はいいほうなんですけどね」と言って、料金を釣り上げ、別の女性を派遣するのだ。

貶められても「自分が選択する自由」を求めた

チェンジが続けば、彼女のプライドは傷ついただろう。同じ風俗嬢からも下に見られる「立ちんぼ」を始めたのは、自ら客引きをすればチェンジされないからではなかったか。身を削り、壊れたような行為を繰り返しながらも、「自分が選択する自由」という最後のプライドだけは保ちたかったのではないか。

彼女を最後まで見つめていたであろう道玄坂地蔵に、「あなたは彼女をどう見ていたのか」と問いたくなる。お地蔵様の口元は、紅く色づいている。彼女が殺害されてから誰かが塗ったという話がまことしやかに流れている。唇の赤いお地蔵さんは、すべてを受け止めるように円山町を、そして私を見下ろしていた。

「あなたに私の何がわかるの?」

そんな彼女の声が聞こえてくるようだ。

あれから24年。私は「潔い転落」もできないまま、中途半端に今もさまよっている。

【参考文献】『東電OL殺人事件』佐野眞一(新潮文庫)
『東電OL禁断の25時』酒井あゆみ(アドレナイラズ)

  • 取材・文亀山早苗

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