耳の潰れた元力士が3度の挑戦で行政書士に「不屈の大逆転劇」 | FRIDAYデジタル

耳の潰れた元力士が3度の挑戦で行政書士に「不屈の大逆転劇」

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現在の斎藤氏。まったくできなかったパソコンも使いこなし充実した日々を送る
現在の斎藤氏。まったくできなかったパソコンも使いこなし充実した日々を送る

インタビュールームに現れたのは、大柄な男性だった。身長は、180cmをゆうに超えているだろう。右耳は餃子のように潰れている。記者が思わず凝視すると、男性は人懐っこい笑顔で話し始めた。

「変わった耳でしょう。現役時代の名残りですよ。柔道かラグビーをやっていたんですかと、よく聞かれます。元力士ですと答えると驚かれますね。現役の時から65kgも体重が落ち、相撲取りには見えませんから」

斎藤氏の耳。取り組みで相手力士の頭と擦れ合い続け潰れてしまったという
斎藤氏の耳。取り組みで相手力士の頭と擦れ合い続け潰れてしまったという

男性の名前は斎藤拓也氏(39)。現在は行政書士として活躍している。「大瑠璃」のしこ名で、あげた白星は通算196。同期には元小結・豊真将、1期上には元関脇・嘉風、1期下には元大関・把瑠都らがいる。なぜ元力士が、行政書士の仕事についたのか。斎藤氏が語る、不屈の逆転劇を紹介したいーー。

斎藤氏は栃木県塩谷町の出身。相撲に興味を持ったのは、小学生の時だった。

「全校生徒が50人超しかいない、小さな小学校でした。男子は全員、町の相撲大会に参加させられたんです。私は身体が大きいですからね。勝てると嬉しくて、中学生になってからも相撲を続けました」

中学卒業後に進学したのは、県下で随一の相撲強豪校・黒羽高だ。国体の個人戦でベスト16になるなど実績を残し、専修大へスポーツ推薦で入学。相撲部の監督が親方と親しかった縁で、04年3月に阿武松(おうのまつ)部屋の門を叩く。

「団体生活には学生時代から慣れていましたが、稽古の厳しさはアマチュアとは大違い。朝6時から当時の親方(元関脇・益荒雄)に『気合を入れろ!』と怒鳴られながら、キツい稽古を受けていました。逃げ出したくなるような日々です……。それでも徐々に強くなっていく実感があり、少しでも上の番付になろうという気持ちで踏ん張っていました」

右ヒザが「カコン」

現役時代の斎藤氏。体重は現在より65kg重い165kg。身長は183cm(画像:斎藤氏提供)
現役時代の斎藤氏。体重は現在より65kg重い165kg。身長は183cm(画像:斎藤氏提供)

08年5月場所で幕下に昇進。相撲界で一人前と認められる関取(十両以上の力士)まで、あと一歩のところまで迫った。しかし……。

「10年11月場所のことです。土俵の外を飛ばされた時、右ヒザが『カコン』と妙な音を出したのが聞こえました。アドレナリンが出ていたのか不思議と痛みはなかったですが、起き上がろうとしても動けない。そのまま車イスで支度部屋に。場所後に東京の病院で診察を受けると、前十字靭帯断絶、半月板損傷という結果です。スグに手術を受けましたが、回復までに1年かかりました」

復帰した斎藤氏はしこ名を「大瑠璃」にあらため復活を期すが、気持ちが追いつかなくなっていたという。

斎藤氏の耳。取り組みで相手力士の頭と擦れ合い続け潰れてしまったという「特に相手が身体の大きい力士だと、取組前に『怖い』という意識が先だってしまうんです。『またケガをしたらどうしよう』と。負けても悔しくない。むしろ『ケガをしなくて良かった』と、ホッとしていました」

負けてホッとしているようではプロとして失格だ。斎藤氏は親方に引退を申し出、14年1月場所後にマゲを落とした。32歳の時だった。

「最後の取組では、なんとか白星をあげられました。嬉しかったのは、花道の近くまで親方が来て胸をポンポンと叩いてくれたこと。力士としては半人前でしたが、親方の下で厳しい稽古を積めて本当に良かったと胸が熱くなりました……」

最高位が幕下45枚目だった斎藤氏に、親方として相撲界に残る特権はない。30歳を過ぎての就職活動が始まった。

「ある会社の面接では、こう言われました。『社会経験がない、運転免許は取りたて、パソコンはできない。3拍子揃っているね』と。愕然としました。『元力士は仕事ができない人間』という、烙印を押されたように感じたんです」

引退後しばらく部屋に住まわせてもらっていた斎藤氏は、女将から「パソコン教室に行きなさい」とアドバイスを受ける。

「ハローワークで3ヵ月ほどの講習を受けました。そこで斡旋されたのが、建設関係の派遣社員の仕事です。指定されたのは、兵庫県内にあった新名神高速道路の建設現場でした。

担当したのはパソコン入力などの簡単な作業でしたが、毎日ツラかった……。ゼネコンの人たちがホワイトボードに建設の工程などを書いて説明するのですが、まったくわからない。専門用語はもちろん、当時の私は漢字もよく読めなかったので、何を言われているのか理解できなかったんです。自分は役に立たないんだと、劣等感にさいなまれていました」

初めてのテストは0点

阿武松部屋での稽古風景。全員で腕立て伏せをしている(画像:斎藤氏提供)
阿武松部屋での稽古風景。全員で腕立て伏せをしている(画像:斎藤氏提供)

斎藤氏は、自分に自信を持ちたいともがき続ける。

「自信をつけるには、おカネ持ちになる。おカネ持ちになるには、経営者にならなければいけない。そんな短絡的な発想でネット検索していたら、たまたま『行政書士』のワードがヒットしたんです。どんな仕事なのか、まったくわかりませんでした。

とりあえず書店で行政書士になるための本を購入し、仕事の行き帰りに読んでいたんですが理解できるはずもない。『行政法? 民法?』。こんなんじゃいつになっても行政書士になれないと、新名神高速の建設現場の任期が終わったのを機に、派遣会社を辞めました。大阪の専門学校に通い、本格的に勉強を始めたんです」

斎藤氏の猛烈な受験生活が始まる。生活費を稼ぐために、夜10時から朝10時までホテルのフロントでバイト。一旦自宅に戻り仮眠を取った後、専門学校で夜9時まで勉強ーー。睡眠時間は一日4時間ほどで、平日は4時間、休日は6~8時間の勉強を続けた。

「専門学校の初めてのゼミのテストは0点です。1年目は授業もチンプンカンプン。2年目からようやく理解できるようになり、3年目で自信がつきました。

行政書士の試験には2年連続で落ちましたが、諦めるという選択肢はなかったですね。30代も半ばになり、あらためて仕事を探そうにも簡単には見つからないでしょう。たとえ見つかっても、また劣等感にさいなまれる日々が待っている。退路を断ったつもりで勉強していました」

そして18年1月の3回目の挑戦。斎藤氏は、合格率10%という試験を突破し見事に行政書士となった。

「合格者の受験番号は、専門のサイトに掲示されるんです。自分の番号を見つけた時は、信じられませんでした。見間違いかと思い、大学の後輩に電話し確認してもらったくらいです。親方にもスグに電話しました。厳しい方ですから電話するだけでも緊張しましたが、すごく喜んでくれてね。引退して4年。ようやく世間の人たちと、同じ土俵に立てた気がしました」

18年8月に大阪府内で事務所を開くが、当初は依頼も少なかった。

「行政書士というだけで仕事が舞い込むほど、甘くはありません。転機は飲食店を経営する大学の先輩から、相談を受けたことです。飲食業は店を開くのに、さまざまな許認可が必要。今年6月にはHACCAP(ハサップ。食品衛生管理の国際基準)が義務化され、事業者が行政に書類を提出する機会も多くなります。私は飲食業を専門にすることにしました。

新型コロナウイルスの時短営業要請の影響で、飲食店から補助金申請の依頼を受けることも多くなった。まだまだ実績は足りませんが、現在は充実した日々を過ごせています」

斎藤氏には目標がある。自分のような元力士をはじめ、アスリートのセカンドキャリアをサポートすることだ。

「引退したスポーツ選手が、飲食店を始めることは多いでしょう。私が少しでもお役に立てれば。それなりに苦労もしたので、アドバイスできることもあると思います」

現役時代に培った粘り腰で、逆境を乗り越えてきた斎藤氏。40歳を前にして、第二の人生の基盤を固めつつある。

先代の阿武松親方と。現役の時は厳しかったが、斎藤氏は引退して師匠の優しさに気づいたという(画像:斎藤氏提供)
先代の阿武松親方と。現役の時は厳しかったが、斎藤氏は引退して師匠の優しさに気づいたという(画像:斎藤氏提供)
稽古中の斎藤氏。生涯成績は59場所で196勝167敗43休(画像:斎藤氏提供)
稽古中の斎藤氏。生涯成績は59場所で196勝167敗43休(画像:斎藤氏提供)
  • 撮影山崎高資

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