領土交渉をスルーして「平和条約」プーチン・ロシアの本当の狙い
駐日ロシア大使の会見でわかった「日本懐柔戦略」〜黒井文太郎レポート
「現在、日露関係はしっかりした基盤に基づいて、さらに善隣・友好・互恵的な協力のかたちで進む可能性があります。(中略)そして、日露関係を幅広く包括的に進めることによって、平和条約締結という課題を実現するために、さらに環境づくりが進められていくと期待しています」
3月10日、ミハイル・ガルージン駐日ロシア大使のオンライン会見が日本記者クラブで行われたが、その注意深く言葉が選ばれた物言いから、ロシアの狙いが浮き彫りになっている。
日本が大切にしている1956年の「約束」
ガルージン大使は冒頭、まずは東日本大震災の被害に対する哀悼の意を表すと、震災時や他の局面での日露間のこれまでのさまざまな協力ぶりを列挙。さらに新型コロナウイルス対策での協力の必要性に触れ、ロシア製ワクチン「スプートニクV」の日本への輸出と、技術移転による日本国内での生産を日本政府に提案したことを説明した。
その後、クリミア併合(大使の言葉では併合ではなく「再統合」)の正当化と、ロシア政府の対外政策の正当性を主張すると、再び日露関係に言及。友好関係を強調し、これまでなかなか進んでいない経済協力についても、「順調です」と肯定的に評価した。そして、善隣・友好を目的とする平和条約の締結を呼びかけてスピーチを終えた。
その後の質疑応答では、日本側記者から「2018年のシンガポール首脳会談で【日ソ共同宣言を基礎に交渉を加速する】と合意されたが、その後、ロシア政府内で対日関係に対する姿勢に大きな姿勢の変化はあったのか?」との質問が出た。
1956年の日ソ共同宣言では「平和条約締結後に歯舞(はぼまい)群島と色丹(しこたん)島の2島は日本側に引き渡す」との記述がある。しかし、日本がそれに基づいて交渉しようとしても、ロシア側は2島引き渡しに応じる気配がまったくない。となれば、ロシア側の真意はどうなのかは、もちろんはっきり聞きたいところだ。
だが、大使は領土問題への言及を避けた。日ソ共同宣言は認めながらも、同宣言の内容はあくまで日露の友好・善隣関係を作る方向性が定められたものだと強調し、さらに、「日ソ共同宣言ではまず平和条約の締結が必要だと明記されています」として、条約締結優先を主張した。そのうえで、「その後に、互いに関心を持つそれ以外の案件・問題の議論が可能となります」とした。
要するに、まずは条約締結が先行されるべきということだが、ここで注目すべきは、大使が注意深く言葉を選びながら、故意に領土問題に言及していないことだ。「互いに関心を持つそれ以外の案件・問題」といえば、日本側ではもちろん領土問題だが、大使はそれに触れないようにしている。つまりそれは、「ロシア側では領土問題に関心を持っていない」ことを意味する。
そうとなれば、仮に平和条約が締結されても、その後にロシア側が2島引き渡しをするかといえば、「そんな約束はしていない」「領土問題の議論をするとも言っていない」と言うことができる。少なくとも、ロシア側は2島引き渡しの言質を回避しようとしていることは明らかだ。
日本のメディアは「本当のこと」を報道していない
この大使の発言に対して、日本側メディアの中には「北方領土をめぐる問題よりも条約の締結を優先させたい考えを改めて強調した」と報じたところもあるが、厳密にはそうではない。ロシアは北方領土をめぐる問題を後回しにしたいのではなく、そもそも「無視」したいのだ。
次の質問は、2020年のロシア憲法改正で「領土割譲禁止。ただし国境策定は例外」と定められたことに関する見解を問うものだったが、大使は「自分の立場では、憲法解釈の権限はない」と回答を拒否した。これはそのとおりで、後にプーチン政権中枢との整合性を問われかねない発言はできないだろう。
さらに記者側からは、「ロシア政府は国境線について態度を変えており、2016年以降、領土問題は存在しないと言っているが、いつ、どういう理由でロシアは立場を変えたのか?」との興味深い質問が出た。ロシア政府の領土問題への態度に関して、核心を衝(つ)いた質問と言っていいだろう。
これに対する大使の回答は、以下のとおりだった。
「平和条約の対話は、いろいろな段階を経過してきました。過去はともかく、2018年のシンガポール合意が出発点と思っています」
要するに、領土問題に関わる質問に対して、何か日本に言質をとられかねない回答は拒否しているのだ。この質問への答えは、やはりプーチン政権の中枢がその時々の情勢を勘案して決めることであり、事前に政権中枢から「発信すべき文言」の細かな指示を受けていなければ、大使の立場で不用意なことを言うわけにはいくまい。
記者側からはさらに「2島引き渡しの義務はどうなのか?」と食い下がる質問が出たが、大使はロシアには日ソ共同宣言を履行する義務があると認めたものの、領土問題には言及せず、同宣言に明記されている平和条約締結に努力しているとだけ答えた。
「領土」問題には、一言も触れなかった
このように、再三にわたって日本メディアの記者からは領土問題交渉への考えを問う質問が飛び飛び出したが、大使は完全にはぐらかしたわけである。しかもその間、一言も「領土」問題に言及しないという徹底ぶりだった。
質疑応答ではその後、次の日露首脳会談への見通しや、北方領土での軍事演習の意味などの質問が出たが、そこは当たり障りのない回答に終始した。とくに後者では、軍事演習は米軍の脅威に対するもので、日本に向けられたものではないとし、日露友好を崩さないタテマエを強調した。
ガルージン大使の会見は以上だが、注目点は以下のとおりだ。
▽徹頭徹尾、日露友好を強調
▽経済活動含め、両国の協力関係に高い評価
▽「日ソ共同宣言を基礎とする交渉の加速」というシンガポール合意を前面に出し、日ソ共同宣言に明記されている平和条約締結の先行を提案
▽ただし、日ソ共同宣言に明記されている“条約締結後の2島引き渡し義務“については言及を回避
▽平和条約締結を訴えつつ、「領土」問題は完全スルー
以上のことから、ロシア側の次のような考えが明白になったと言える。
「ロシアは日本と平和条約と締結し、経済関係を進めたい」
「しかし、条約締結後も領土の交渉はしない。つまり2島引き渡しの意思はない」
まるで赤子の手を捻るように「やられた」日本
そして、ガルージン大使の任務は、おおよそ以下のようなことと見ていいだろう。
①友好的雰囲気を醸成し、
②日本政府、日本メディア、日本国民を懐柔し、
③領土問題を回避しつつ平和条約を締結し、
④日本からの経済的利益を狙う。
つまり、そのための地ならしを進めるということだ。
今後、ロシア側はこうした働きかけをますます強めるだろう。しかし、先に平和条約を締結しても、ロシア側は「2島引き渡し」には応じず、領土問題の交渉すら応じる気がないことが、今回の会見からも読みとれる。日本政府も少なくともそこは理解し、くれぐれも「平和条約を締結すれば、その後に領土交渉の道が開けるはず」などと、ロシア側が故意に言わないようにしていることを期待してはならない。
黒井文太郎:1963年生まれ。軍事ジャーナリスト。モスクワ、ニューヨーク、カイロを拠点に紛争地を多数取材。ゴルバチョフ~エリツィン時代、モスクワに居住し長期取材した。軍事、インテリジェンス関連の著書多数。最新刊『超地政学で読み解く! 激動の世界情勢 タブーの地図帳』(宝島社)>
- 取材・文:黒井文太郎
軍事ジャーナリスト
1963年、福島県生まれ。横浜市立大学卒業後講談社に入社し、FRIDAYの仕事に携わる。退社後はニューヨーク、モスクワ、カイロに居住し、紛争地域を中心に約30カ国を取材。帰国後は月刊『軍事研究』特約記者、『ワールド・インテリジェンス』編集長などを経て現職に就いた。 著書に『アルカイダの全貌』『イスラムのテロリスト』『世界のテロと組織犯罪』『インテリジェンスの極意』『北朝鮮に備える軍事学』『日本の情報機関』『日本の防衛7つの論点』『工作・謀略の国際政治 - 世界の情報機関とインテリジェンス戦』、他多数。