ラグビー界名将が大企業のトップになる高校生たちに残した遺言

さらに三越伊勢丹の副社長、東京海上日動火災、味の素の執行役員……今もなお息づく大西鐵之祐氏の教え

  • Facebook シェアボタン
  • Twitter シェアボタン
  • LINE シェアボタン
  • はてなブックマーク シェアボタン
早大学院が名門・国学院久我山に勝って花園初出場をきめた直後。前列右から2人目が寺林努主将、左隣が石井敬太・伊藤忠商事次期社長、左端が竹内徹・三越伊勢丹副社長、左から4番目が本山浩・味の素執行役員、後列右端が佐々木卓・TBS社長。青色が大西鐵之祐氏

かつてラグビー日本代表を率い、早稲田大学が勝てない時期の再建も託された名将・大西鐵之祐氏(1995年死去、享年79)の指導のもと、1978年度の第57回全国高校ラグビー大会で初出場を果たした早稲田大学高等学院(早大学院)。

そのメンバーには、この春、伊藤忠商事の社長に就任する石井敬太氏や、2018年よりTBSホールディングスの代表取締役社長を務める佐々木卓氏ら、そうそうたる人材が名を連ねていた。

前編に続いて、当時の早大学院ラグビー部の主将で、東京海上日動火災保険の元常務執行役員でもある寺林努氏の回想をもとに、なぜこのクラブからこれほど多くのリーダーが育っていったのかを探ってみたい。

会社のマネジメントに通じる練習計画の立て方

1977年の秋、寺林主将と佐々木副将が率いる早大学院は東京都予選決勝で強豪の國學院久我山を9-6で破り、花園初出場を果たす。しかし、そこに至るまでの道は決して平坦ではなかった。新人大会である程度手応えをつかむ戦いができたものの、春合宿では前年度に3度目の全国制覇を遂げた目黒(現目黒学院)に完敗。その後の都大会でも、國學院久我山に24-40で屈した。

秋の全国大会東京都予選でも試練は訪れる。授業が休講になった空き時間にクラスメートと遊びで野球をやっていた際、すっぽ抜けたバットが寺林氏の顔面を直撃。口の中を6針、口の外を10数針縫う大ケガを負い、チームは主将抜きで準々決勝を戦うことになった。

「やばいという雰囲気もあったのですが、出場した選手たちがすごくがんばって、その試合を乗り切ってくれたんです。そこからチーム全体が『行ける!』というムードになった。振り返れば1年を通してそんなことの連続で、何かひとつでもパズルが欠けていたら、あのチームは崩壊していたと思います」

迎えた決勝。下馬評は國學院久我山の断然優勢で、敵将の中村誠監督は「50点取って勝つ」と自信満々だったという。

一方で早大学院の選手たちにも、密かな自信があった。

「強いチームほど、思い通りにいかないとフラストレーションが溜まるものです。そうさせるために自分たちがどんなプレーをしなければならないかも、みんなわかっていました。実際、試合では本当にその通りになって、相手は仲間同士で『何やってるんだ!』と言い合っていた。久我山は全員制服の大応援団で、学院の応援席には長髪でジーパンを履いたクラスの友だちがパラパラと来ているだけでしたが(笑)、歓声がまったく聞こえないくらい、みんな集中していました」

もちろん、そうした戦いに持ち込むための方法は徹底して準備した。春の都大会で敗れた際、「点は取れる」という手応えはつかんでいた。接戦に持ち込めば勝機はある。その時点で、秋の全国大会予選までにすべきことが決まった。

「大西先生は常に、『ゴールから逆算して練習計画を立てなければならない』と言っていました。この日までにこのレベルに到達する。そのためにこの練習をこれだけやると計画を立てる。思えば先生が日本代表や早稲田を指導していた時も、そういうやり方をされていた。我々はそれを、高校時代に当たり前のように経験させていただいたわけです。

会社の組織づくりやマネジメントも、学院のラグビー部で学んだこととベースは同じ。私も卓も石井敬太も、高校生でそういう方々に教わり、ありがたい言葉をいただいた。当時はわからなかったですが、今にして思うと、非常に恵まれていたと感じますね」

そして、その上で寺林氏が「あの出来事が大きかった」と振り返るのが、2年時に起こった1学年上の先輩の事故だった。スクラムの練習中に最前線で組んでいた3年生の選手が脊椎損傷の重傷を負った事故は、部員たちのラグビーに対する意識を根底から変え、覚悟を持って競技に取り組まなければならないという強い決意を呼び覚ました。國學院久我山を破って花園初出場を遂げた決勝の後、OBに促されスピーチの場に立った寺林主将は、こんな話をしたという。

「あの試合は何しろスクラムを押されまくったのですが、自陣ゴール前まで攻め込まれて、ここを押し切られたら…という場面で、ピタッと止まった。そのシーンを振り返って、『あれはきっと、ケガをした先輩が止めてくれたんだと思います』と言ったそうなんです。

自分ではそんなことをしゃべった記憶はまったくないのですが、しばらく経ってあるOBの方から、『君たちにとってそれほどの出来事だったんだな』と教えてもらいました。その先輩はその後大変な苦労をされたわけで、もちろんあの事故は絶対にないほうがよかった。一方で、もし何もなければ、私たちはおそらく平凡なチームで終わっていたと思います」

佐々木氏(右上)と寺林氏(右下)は早大進学後もラグビー部に入部し、4年時には高校時代同様、寺林主将、佐々木副将としてチームを引っ張った。1981年12月の早明戦で明大ボールのスクラムでボールの行方を追う佐々木氏(左端、右上の近影:松本かおり)

「ナショナルリーダーになれ」「我欲を捨てよ」

高校時代に大西先生からよく言われたのは、「学生の本分を忘れてはいけない」ということと、「ナショナルリーダーになれ」ということだった。当時はその真意を理解することができなかったが、大学を卒業して会社で仕事に就き、結婚して家族を持つようになって、次第にその言葉の意味がわかるようになった。そしてあらためて、いかに自分たちが恵まれた環境で、すばらしい指導者から愛情を持って育ててもらったかを、ひしひしと実感した。

寺林主将、佐々木副将の代の早大学院ラグビー部の同期は13人。うち8人が、早稲田大学ラグビー部でもラグビーを続けた。例年はひと学年2、3人ほどだから、その数は異例と言っていい。きっとそこには、当事者たちにしか理解し得ない絆があったのだろう。

結果として大学4年時は、王座から4シーズン遠ざかる早稲田を再建すべく大西鐵之祐氏が17年ぶりに監督に復帰し、早大学院時代と同じ寺林主将、佐々木副将のコンビで覇権奪回に挑むこととなった。しかし、同期部員の大半は附属高校や公立高校の出身者で、高校日本代表や強豪校の主軸がこれでもかとひしめく明治や同志社に比べて、戦力的には大きな差があった。その差を埋めるために、寺林氏たちは日々過酷な猛練習に取り組んだ。

「当時は理不尽がまかり通っていた時代でしたから(笑)。でも社会に出たら、理不尽なことはいくらでもある。その理不尽をどう乗り越えていくかということを、高校、大学とラグビーを通して体感しました。ただ、今になると苦しい経験ほど笑って話せるし、楽しかったことなんてほとんど話題にならない。不思議なものですね」

キャプテンを務めた大学4年時に記憶に残っているのは、大西監督のこんなエピソードだ。早稲田は毎年、秋の公式戦とは別に春にも慶應や明治と定期戦を行なっているが、その年はある程度手応えを持って臨んだ春の試合で、慶應、明治に完膚なきまでに叩きのめされた。折しも大西監督は心臓の病で入院しており、寺林主将と佐々木副将はお見舞いを兼ねて、敗戦の報告に行くことになった。

絶対に怒られるだろうな――。そんな暗い気持ちで病室に入ると、大西監督から思いもしなかった言葉をかけられた。

「我々を見るなり、『どうしたんだよ?』とおっしゃったんです。きっと先生は僕たちのことを信じてくれていて、そんな負け方をするチームじゃない、という思いがあったのでしょう。それで『夏合宿からやり直そう』となって、迷いが吹っ切れた。大西先生は本当に心の底から学生を信頼して、純粋に愛情を注いでくださった。その愛情が、選手にとってしんどい時に信じる力になる。そのありがたみを、今になってあらためて感じています」

結果的に寺林主将の早稲田は秋の関東大学対抗戦で慶應、明治を破り、全勝で5年ぶりの優勝を果たした。大学選手権では優勝こそならなかったものの、決勝で大本命の明治を12-21と追い詰めた戦いぶりは、今なお名勝負としてラグビーファンの間で語り継がれる。

さかのぼってその年の春。宿敵の慶應と明治に大敗し苦悩する寺林主将のもとに、入院中の大西監督から手紙が届いた。そこには「我欲を捨てよ」と記してあった。

「自分の欲よりもっと大切なものがあるだろう。それをしっかりやりなさい。そういうことだと理解しました。会社に入ってからも、私は決して我欲では仕事をしなかった。お客様のため、会社のため、ひいては世の中のためになっているのか、それを軸に判断していました。たぶん卓や敬太も、そうやって仕事をしているのではないでしょうか」

数々の修羅場をくぐり抜けたキャプテンの顔に、穏やかな笑みが浮かぶ。その表情に、ひとつのチームからこれほど多くのリーダーが生まれた理由が垣間見えた。

早大高等学院が花園出場を目前に控えた時期の新聞記事。右の欄の予想メンバーには寺林主将(◎の印)をはじめ、FW陣に味の素の執行役員・本山浩氏、三越伊勢丹の副社長・竹内徹氏、伊藤忠商事次期社長・石井敬太氏、HBの欄にTBS社長の佐々木卓氏の名前が並ぶ

◆大西鐵之祐

1916年、奈良県生まれ。早大の選手時代のポジションはFL(フランカー)。大学卒業後に東芝に就職したが、兵役に就き終戦を迎える。戦後、早大職員から教授になる。1950年度シーズンより早大ラグビー部監督に就任。以後5シーズン監督で3度の全国制覇。その後、1962年に早大が対抗戦Bブロック(二部相当)に転落したときに再建を託され、1年でAブロックに復帰。1966年から1972年まで日本代表の監督に就任し、1968年のオールブラックスジュニア戦勝利(〇23-19)や1971年のイングランドXVとの接戦(●3-6)は今でも伝説となっている。1981年、過去4年間で2度、大学選手権の出場すらできなかった不振を打破すべく、3度目の早大監督就任。この時の主将が寺林努氏だった。

  • 取材・文直江光信

    1975年熊本市生まれ。県立熊本高校を経て、早稲田大学商学部卒業。熊本高でラグビーを始め、3年時には花園に出場した。現在、ラグビーマガジンを中心にフリーランスの記者として活動している。著書に『早稲田ラグビー 進化への闘争』(講談社)

  • 写真寺林努氏提供(1、3、4枚目)

Photo Gallary5

Photo Selection

あなたへのおすすめ記事を写真から

関連記事