劇団・樹木希林、喝采のなか終幕〔メモリアルフォト〕
遺影も葬儀段取りも決めてあった「主演・脚本・演出」すべて自分
「樹木さんは最後まで自分の仕事は全て自分で決めていました。亡くなる数ヵ月前にお会いした時も、自分で車を運転してスタジオ入りしていましたね。生前から『遺影もお葬式の段取りも全部決めてあるの』と言っていて、本当に自分の人生を生ききったのだと思います」(樹木希林さんと親交があった映画ライター)
9月15日、女優の樹木希林さんが75歳の生涯を閉じた。’12年、がんが転移した病状を「全身がん」と独特の表現で公表。以後も仕事を続けていたが、8月末には一時危篤状態になり、東京都渋谷区の自宅で家族に囲まれて息を引き取った。
「この春にご一緒した時、全身に広がったがんのCTスキャン画像を見せていただいたので、覚悟はしていたんですけど……でもこんなに早く逝くとは」
主演映画『あん』の原作者、ドリアン助川さんは、こう嘆息した。同作でカンヌ国際映画祭に出席した時、会場で「これはやみつきになるわねぇ」とウキウキしていた様子が今も目に浮かぶという。
「放射線治療の名医に診察をしてもらい、がんを少しずつ消滅させる段階にきていたんですよ。でも、忙しくなり半年間ほど治療を受けていなくてがん細胞が広がってしまった、と。上映会に参加するため二人で旅をしました。その時の写真も届けていなくて、悔やみきれません」(助川氏)
独特の空気感を持つ女優として愛された樹木さんは、毒舌家としても知られた。映画『はなれ瞽女(ごぜ)おりん』で樹木さんを起用した篠田正浩監督は話す。
「ハイカラで茶目っ気のある人でしたよ。撮影の合間に、急に撮影隊メンバーの車を品定めし始めたことがあってね。『誰、あのダサい車に乗ってるの』と指さしたら、それが僕のだった(笑)。誰かが、あれ監督のです、と耳打ちしたんですが『趣味悪いわね』と、またバッサリ。そんな歯に衣着せぬ言い方が痛快でした」
私生活ではロック歌手・内田裕也と結婚しながら、別居。しかし40年間にわたってついに離婚届に判を押さずに生涯を終えている。クールそうに見えて、情に厚い性格をその奥に秘めていた。たとえば不登校に苦しむ子供たちのための講演会には、進んで登壇したのだという。『不登校新聞』編集長・石井志昂氏が明かす。
「その頃にはもうがんのことを公表されていたのですが、『人間は自分の不自由さに仕えて成熟していく』と話していたのが印象的でした。社会に溶け込めずに悩む子供たちに対しては『焦らなくても、年取ったら死ぬ理由はいっぱい出てくるから。フラフラしててよ』とおっしゃって。とにかく粋な人でした」
信念に従って生きた75年だった。
撮影:蓮尾真司(出棺、車いすの内田裕也)