震災と復興と悔しさと…10年目の福島県いわき市を歩く | FRIDAYデジタル

震災と復興と悔しさと…10年目の福島県いわき市を歩く

黒井文太郎レポート【後編】

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2011年3月、東日本大震災。地震、津波、そして原発事故。そんななか「すこし特殊」だった福島県いわき市の復興を支えた人を、いわき出身の軍事ジャーナリスト黒井文太郎が取材した。

2012年3月の豊間中学校。震災から1年経っても、校庭には瓦礫が積み上がっていた。他地区とは違う「特殊な」被害が、ここにはあったのだ 撮影:黒井文太郎

いわきの「特殊な立ち位置」

いわき市は被災地としては、ちょっと特殊な位置づけになる。

岩手や宮城の海岸部は、津波で凄まじい被害を受けた。福島県浜通り双葉郡の各町は、原発事故後の放射線被害で長期の避難生活を強いられた。それらに比べ、いわき市は全体的にみると、少し事情が違う。

僕は高校までいわきで育った。今は関東在住で、たまに帰省する程度だが、同級生たちとは震災当時から連絡はとっている。そうした実感からすれば、東京の人がいわきを見る感覚と、いわきの友人たちの感覚には、10年前から多少食い違いがあるのだ。

福島県外の人は、いわき市を「原発事故被災地」とみる見方が強いように思う。しかし実際には、いわき市では北部の市町境の一部地域を除き、幸いなことに放射線被害はごく軽微で済んだ。線量は低く、市内全域が避難区域の対象外に留まった。いわき市民でも原発事故への無念を語る人は多いが、それは双葉郡の被害を含めての話だ。

震災直後は原発事故の状況がよくわからず、タンクローリーや各種配送車がいわき市内へ立ち入ることを拒否したため、生活物資が枯渇し、多くの市民が市外に脱出するということもあった。だが、そうした事態は数週間で元に戻り、ほとんどの市民は静かに普通の生活に戻った。むろん現在も続く農業・漁業の風評被害は大きいが、風評被害の元凶は「風評」だ。

この風評被害について、悔しい思いを持つ知人は多い。たとえば農産物は、厳しい検査で安全性が確認されているのに、福島県産というだけで敬遠される傾向が当初はあった。実際には地域の線量は低いにもかかわらず、放射線の脅威を誇張する一部のメディア報道に対する違和感を、郷里の友人たちはしばしば伝えてきた。

とはいえ、いわき市は原発事故からも大きな影響を受けた。双葉郡の自宅に住めなくなった住民のなかに、距離が近くて放射線被害が軽微だったいわき市に避難した人が多くいたのだ。いわき市は原発事故に関しては、被災地というよりむしろ「被災者を受け入れた町」となった。

また、多くの原発作業員や除染作業員が、宿舎のない双葉郡ではなく、いわき市に宿をとった。土木建設業や不動産業、ホテル旅館業、飲食業などは一時的にかなりの活況を呈した。いわき市は「原発事故の処理の後方拠点」としての役割を担ったのである。

ただ、じつはたいへんな被害を直接受けた人たちもいた。津波に襲われた沿岸部の人々だ。規模は岩手や宮城ほどではないが、いわき市の沿岸部でも、いくつもの集落が壊滅的被害を受けたのだ。これは案外、知られていない。

震災1年後のいわきを撮影して歩いた

2012年3月11日、僕はいわき市のいくつかの被災地を撮影した。そして震災10年後の今、同じ場所はどう変わったのか。いくつかの場所を紹介したい。

いちばん被害が大きかったのは、東北部の久之浜・大久地区。それに東部の豊間・薄磯海岸だろう。どちらも大規模な防潮堤が作られ、区画が大きく整理された。久之浜で奇跡的に流されなかった神社の鳥居と祠(ほこら)は、今は震災追悼のシンボルとなり、東日本大震災追悼伝承之碑が設置されていた。

2012年3月11日。いわき市沿岸部の久ノ浜地区。一帯は津波に襲われたが、鳥居は残った
現在の久ノ浜地区。大きな防潮堤と防災緑地が築かれ、海は見えない。鳥居は同じ場所に立って地域を守っているかのようだ

震災1年後には瓦礫が山のように集積されていた豊間中学校は内陸に移転し、跡地は薄磯防災緑地と「いわき震災伝承みらい館」になっていた。南部の勿来地区の岩間海岸も津波で集落が壊滅したところだが、やはり大きな防潮堤が作られていた。こちらも区画整理が進んでいた。

地元いわきで同級生たちが支えた復興

じつは、この岩間海岸は、高校時代の友人の家のすぐ近くだった。僕の生家は沿岸部ではないので津波被害はなかったのだが、友人の家は床上浸水に遭っており、また彼自身が地元の復興ボランティア・グループのメンバーをしていたことから、そちらの被害状況は、震災直後から詳しく聞いていた。

いわき市民の10年の一例として、彼の話を紹介してみたいと思う。友人の名前は室井潤という。こう書くとなんか照れくさいので、以下、ムロイと書く。

ムロイと僕は高校の同級生でバンド仲間だった。家業の印刷工場経営をしながら音楽を続けていて、地元のオジサンとしては比較的、若い世代にも友人が多い。ムロイは震災以前から、地元の町おこしグループ「勿来ひと・まち未来会議」のメンバーだった。その仲間たちと、まずは避難所での炊き出し活動を始めた。

岩間海岸の集落は、壊滅的な被害を受けた。防波堤が崩壊し、全体の42%の家屋が全壊。死者は10人だった。まもなく全国からボランティアの若者たちが集まってきた。独り身のムロイの家は、そんなボランティアたちの雑魚寝アジトになった。仲間内で「ペンション・ムロイ」と呼ばれていたが、僕自身も当時、何度かペンション・ムロイでボランティアの若者たちとともに寝起きした。ペンション・ムロイには多いときで十数人、のべ数百人が宿泊した。

「高齢化社会への対応が早まったんだ」

ムロイは2012年6月、前述した勿来ひと・まち未来会議の会長に就任し、18年まで務めた。当初はボランティアと協力し、被災地の直接支援が多かったが、やがて復興事業のアドバイザー的な役割が増えたという。

「毎月1回、行政の担当者とミーティングするんだけど、つまりは地元と行政の橋渡しみたいなことかな。地元の人たちが何に困っているかを聞いて、それを行政側に伝える。街灯はどうしてほしいとか、道路はどう直してほしいとか。田舎だから高齢者が多いので、やはりそういう役目が求められる。地方の高齢化の問題は全国的なことだけど、いわきは震災で、一気に高齢化対策が必要になった感じ」

それともうひとつ、勿来地区ならではのこともあった。

「双葉町役場が近くに移転してきたんだよね。それはもちろん困っている人を助けるのは人として当然。だけど、どこにもいろいろ言う人はいてね、ま、調整役は必要なんだよ」

10年が経ち、ムロイ自身は、いわゆる復興事業での自分たちの役割は、これでほぼ一区切りだと考えているという。

「自分の地元で大きな被害が出たからね。それは大きなショックだったし、そんな状況なら自分でやれることはやらないと、という気持ちだったなあ。でも10年して、あとはやっぱり、もともとの問題だった地域の高齢化社会への対応なんだよね。これはこれでしっかりやっていくしかないけれども」

ムロイと岩間海岸の被災地を歩いた。集落の多くの家は高台に移転したが、まだ残っている家もある。ムロイは慣れた様子で、住人と話をする。

「3月11日の花火、うるさくなかったですか?」

「いいや、にぎやかで綺麗で嬉しかったよ」

地域の住民と行政の橋渡しをする元同級生の「ムロイ」は、震災後も地元バンド『十中八九』メンバーとして音楽活動を続け、ビッグバンド『渋さ知らズ』の公演にも、ベーシストとして参加している

そういえば、震災翌年の3月11日に、岩間海岸では「なこその希望鎮魂祭」が行われ、僕も参加して黙祷を捧げた。しかし、その後、そのネーミングに反対意見が出て、今では「なこそ希望プロジェクト」という名称になっている。

当時津波に襲われた集落でも、すでにハウス栽培などが再開されている。このあたりはもともとネギが有名だった。やはり時間は確実に前に進むのだ。

岩間海岸の空いた土地には、新たにアパートホテルのような建物もできていた。かつては隣接する火力発電所関連の作業員なども宿泊していたようだが、今ではサーファーが多いという。地元では他所から来るサーファーに偏見を持っている人もいるとのことだが、僕らが話を聞いた住人のお母さんは「人が減って寂しいからね。若い人が来てくれるのは嬉しいよね」と笑っていた。

「やれたこともたくさんあんだっぺ?」

その夜は、密にならないように気を遣いつつ、この10年の話を聞くために数名の同級生や後輩と会った。市役所職員や中学教師、NPO代表などだが、その中でも震災関係で興味深いのは、市役所職員の話だ。今50代の彼らはちょうど、この10年間、市の復興事業の最前線にいたのだ。

彼らの話を総合すると、さまざまな「調整」に神経をすり減らしてきた10年だったという。

市役所職員は当然、より良いいわき市にするために、行政の担当者として復興事業を計画的に進めたいと考えている。しかし、カネが絡むと、話はそう簡単にはいかない。もちろん市民の一部の人間ではあるのだが、自分のことだけを考えて話を進めようと強引に絡んでくる者もいるのだ。これはどこの自治体でも日常的に起きていることではあるのだろうが、いわき市では大規模な補償金や復興資金が動くので、その苦労が絶えなかったようだ。

そんな同級生の1人に、僕は酒を注ぎながら尋ねた。

「まあそれでも、それなりにやれたこともたくさんあんだっぺよ?」

ちょっと一瞬考えて、友は嬉しそうに笑った。

「んだな」

それから彼は、自分が関わってきたいくつもの復興事業の話をしてくれた。苦労はあったが、仕事にやりがいもあったようだ。

地元の同級生たちは、それぞれ居住地や職種によって、震災で受けた影響は違っていた。けれどもみんな、震災前とはやっぱり意識が何かしら変わったところがあると言う。

そんな話をもっと聞こうと思ったのだけど、久しぶりの旧友たちとの再会は、あっという間に酒量が増える。まあいいか、また今度で。

互いに高校生の頃の悪ガキの印象が強いのだけれども、その日は、震災復興の一部を担ってきた旧友たちの姿が、じつに頼もしく見えた。

市内に設置された線量計。いわき市内のほとんどの地域では、震災当時から大きな数値は出ていなかった
2012年3月11日の「鎮魂祭」で黙祷した。このとき、市内にはまだ瓦礫の山がいくつも残っていた
岩間海岸に建立された慰霊碑。真新しい花が備えられていた
沿岸部にあった中学は内陸に移転した。学校があった場所は防災緑地になっている

黒井文太郎:1963年生まれ。福島県いわき市出身。軍事ジャーナリスト。モスクワ、ニューヨーク、カイロを拠点に紛争地を多数取材。軍事、インテリジェンス関連の著書や記事、テレビ出演も。最新刊『超地政学で読み解く! 激動の世界情勢 タブーの地図帳』(宝島社)>

  • 取材・文・撮影黒井文太郎

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