さよならマツタケ博士!松茸養殖に人生を捧げた「ある男の生涯」 | FRIDAYデジタル

さよならマツタケ博士!松茸養殖に人生を捧げた「ある男の生涯」

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マツタケの養殖に人生を捧げ、「マツタケ博士」と呼ばれた吉村文彦さんが今年1月、京都市内の自宅にて逝去された。

享年80。毎年秋のマツタケシーズンになると「マツタケ研究」の第一人者としてNHKや民放テレビ・ラジオで解説をしていたので覚えている方もいるかもしれない。

昨年秋、病気療養中に岩倉の山で撮影された吉村先生の写真。さよなら、マツタケ先生

縁もゆかりもなかった岩手で活動したことで、岩手はマツタケ増産を果たし「岩手のマツタケ」はブランド品としての地位を築いた。これを推し進めた吉村先生の功績についてはあまり知られていない。

いつから「マツタケの本場」になったのか

マツタケの本場・岩手――そういわれるようになったのは、実はそう昔のことではない。

今では1キロ10万円の値段がつくほどで、20万円、30万円というのも珍しいことではない。ずば抜けて高価な食材として「森の宝石」とも称されるマツタケであるが、岩手産マツタケは中央ではそれほど高値がつかなかった。

その理由を解き明かすためにも、まずはマツタケの歴史を振り返ってみよう。

平安時代から和歌に詠まれていたマツタケの食文化。西日本の中心は京都であり、そこに岡山や広島、信州、和歌山などのマツタケが出荷されていた。なかでも京都の北部、丹波篠山産が最高級とされ、その時代は昭和60年代まで続いたのである。

それが、地球温暖化の影響なのか森の荒廃の影響なのか定かではないが、京都のマツタケの生産量が極端に減り、冷蔵車での流通が進んだことも影響して岩手産のマツタケに注目が集まった。

先生がアドバイスをしていた岩泉町のマツタケ集荷業者の内部写真。これだけで軽く1000万円を超える

マツタケ研究所誕生

1989年、当時の竹下登内閣は「ふるさと創生基金」という企画をぶち上げた。全国津々浦の市町村に対して一律に1億円を配り、「なにか地域振興につながることをやれ」というもので、分かりやすいバラ撒き政策であった。

ある町では金の延べ棒を1億円分購入して見学させたり、なぜか自由の女神像を作った自治体もあった。

岩手のなかでもマツタケ生産が最も多い岩泉町は、その一部を使ってマツタケ増産を目指した。岩手県の中央部、北上山地の北部にある岩泉町は99%が森林という町である。東側は太平洋に面しており、世界三大漁場の三陸の魚介類が水揚げされている。そんな町の中心部から車で15分ほどの山際に、マツタケの研究所を創設してマツタケ生産を増やそうと画策したのである。

町が「研究リーダーに」と白羽の矢を立てたのは、マツタケ研究の最先端をいく吉村文彦博士。京都大学の大学院を出て、マツタケ研究に人生を捧げてきた生粋の研究者だ。

今では養殖ができているシイタケやシメジのようなキノコと異なり、マツタケの養殖は不可能と言われていたが、先生は日本初のマツタケ養殖を目指していたのである。当時49歳の彼に子供はいなかったが、和歌山市出身の奥様と一緒に岩泉町へ移り住み、「研究所の所長」となった。

研究所は100坪ほどの木造平屋建てであるが、会議もできる部屋も用意され、小中学生の見学にも対応できる展示類もあった。実験室にはキノコの細胞を育成するインキュベーターや、外部からの微生物の侵入を防ぐクリーンベンチなども設置され、大学の研究室にも負けないような高価な器具も備え付けられていた。

また、研究所から徒歩で3分ほどのところには、研究所専用の実験林である小高い山があり、斜面の地面にはその年に生えたマツタケの印として色分けされた金属の細い棒が何本も刺さっていた。先生はこの実験林の気温・湿度を毎日調べることはもちろん、地温や土中の水分含有量なども記録して、マツタケが生えてくるメカニズムを解明しようとしていたのである。

また、隣接する久慈市や大野村、田野畑村や宮古市、そして山田町豊間根や大浦などの三陸沿岸のマツタケ産地に足を運んでマツタケが発生しやすい森の環境造りを指導して廻ったのである。

マツタケは山に落ち葉などの栄養分が多すぎると、発生しづらくなる。先生は「里山の栄養分を除去しなければならない」と林家を説得した。

「大学の先生に何が分かる?」と言われて

吉村先生の助言や提案は、最初から地元に受け入れられたワケではなかった。落ち葉を掻いて地表を綺麗にする作業を頑として受け入れない林家もあった。何十年もマツタケ採りをしているベテランからすれば、「自分が一番マツタケのことを知っている」という自負があったのは当然とも言える。

しかし、先生は図や写真を見せてマツタケが発生しやすい環境造りの大切さを指導して廻ったのである。その指導の甲斐あって、徐々にマツタケの発生量が増えるに従って先生への不満の声は少なくなっていった。また、先生は岩泉の青年たちを京都のマツタケ専門の卸問屋に派遣して、マツタケの見方を勉強させた。こうした取り組みが奏功して、次第に「岩泉のマツタケ」はブランド化していったのだ。

現在岩泉にはマツタケの目利きを「マツタケマイスター」と呼んで、品質管理を徹底させているが、そのお陰で京都のマツタケ専門店の店頭には「岩泉産」と鮮やかに記されたマツタケ籠がずらりと並ぶことになった。丹波篠山産のマツタケや信州産のマツタケにも負けないどころか、一番高額な値で取引されていることも珍しくない。

馴染みの客も岩泉産の品質の良さを充分に理解しているので、懐から札束を取り出して購入していくのだ。

突然の閉鎖

マツタケの研究に人生を捧げてきた先生だが、苦難は突然訪れた。2005年秋、岩泉で会った時に、先生は悲しい顔をしてこうつぶやいた。

「実はマツタケ研究所が閉鎖されるんだよ」

突然こう告げられた夜のことを今でも忘れることができない。緊縮財政という町の方針で、まつたけ研究所の閉鎖が決まったという説明であったが、先生がこの決定に不満だったのは表情で分かった。

「研究所の運営費は国の補助金で賄っているから、町の負担はそれほどないんだけどね…」

悔しそうに言葉を絞り出した。岩泉町は政争が激しい町である。まつたけ研究所を誘致してきた前町長の功績を面白く思わない人たちもいて、それが研究所閉鎖につながったのではないか…という噂まで聞こえてきたが、どんな理由にせよ、私は暗澹たる気持ちになった。

岩泉から京都に戻った先生は、大学の講師をしながら京都市の岩倉の山を借り、絶滅していた京都産のマツタケを発生させる事業を立ち上げた。「まつたけ十字軍」と名付けられ、そこに高齢者たちがボランティアとして集まってマツタケの環境造りを始めたのである。

毎週土曜日、山に2~30人が自主的に集まり、先生の指導の下で山づくりに汗を流した。それから8年近く経ち、岩倉の山に念願のマツタケの姿が現れた。最初は2~3本生えてきた。その翌年こそなかったものの、その次の年からはコンスタントにマツタケが発生している。

さよならマツタケ先生

先生の下には全国のマツタケ林家が、秋のマツタケ発生へのアドバイスを求めていた。

「地中の水分量が少ないから、水を撒いたほうがいいですよ」

先生は研究所が閉鎖されたその後も、無償で日本のマツタケ生産量向上に動いたのだった。

先生が岩泉の研究所でマツタケ養殖へ向けての研究をしていたことは前述した。実はマツタケ養殖に成功していたが、先生はそのことを発表していなかった。「養殖」といってもおがくずで栽培したり、ほだ木に菌を植えるという方法ではない。アカマツの根にマツタケの菌糸を接触させ、それをネットにしてアカマツの根元の周囲に数枚埋めるというものである。

これで4~5年すればマツタケが発生する可能性が高くなる、と先生は断言していた。しかし、ネットを埋める費用が一本につき30万円ほどかかるという点にネックがあったので、実現はしていない。そのうえ、菌糸を根に定着する方法を先生は特許にしていなかった。

「方法を少し変えるだけで特許をクリアーできるから。オレはまだ特許は取らない。もうちょっと先かな」

先生はそのように言っていたが、マツタケの養殖技術を本格的に広める前に、天国に旅立ってしまった。

マツタケ十字軍が活動している京都市岩倉の山で先生を偲ぶ会が3月に催された
  • 取材・文吉田隆

    ジャーナリスト

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