吉川晃司『Virgin Moon』のスゴさと溢れる男気の理由 | FRIDAYデジタル

吉川晃司『Virgin Moon』のスゴさと溢れる男気の理由

スージー鈴木の「ちょうど30年前のヒット曲」、今回はスージー鈴木、深く反省!

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13年8月6日マツダスタジアムで行われた「ピースナイター」の始球式に登場した吉川晃司。この写真では見えないが、背番号は8.6
13年8月6日マツダスタジアムで行われた「ピースナイター」の始球式に登場した吉川晃司。この写真では見えないが、背番号は8.6

ちょうど30年前のヒット曲をご紹介しています。今回は1991年4月12日に発売された吉川晃司『Virgin Moon』。懐かしい。私はこの曲の縦長8cmシングルをリアルタイムで買いました。

曲の話に入る前に、まず上の写真のこと。これは13年8月6日、広島に原爆が投下されて68年となる日に、広島マツダスタジアムで行われた「ピースナイター」の始球式の写真です。このとき吉川晃司が投げたストレートの球速は何と111km/h! その「ピースナイター」の話は後ほど。

今回は、吉川晃司の歩みを飾る印象的な言葉を通して、デビュー前からの「吉川晃司ヒストリー」をたどっていきます。まずは本人の言葉。

■吉川晃司「広島にとんでもないヤツがいる。ギターも歌も天才的。絶対に見たほうがいい!」
(出典:吉川晃司『愚 日本一心』-KADOKAWA-)

広島修道高校で水球にあけくれ、アンダー20の世界選手権にも選ばれた吉川晃司が、徐々に水球に冷め、ロックに傾倒。何とか世に出たいと、渡辺プロダクション(ナベプロ)に自らが匿名で送った手紙の中の一言です。

この手紙がキッカケで、吉川晃司はナベプロのオーディションに合格。「高校を卒業したら、東京に出てきなさい」というナベプロの申し出に、吉川は「いや高校、すぐに辞めます。明日にでも東京に出て行きます」。そして。

■渡辺晋「いま、渡辺プロの金庫に残っているカネは三億円だけだ。これしかない。お前たち、いいか、ようく聞けよ。この三億円をつかって吉川晃司を売り出す! ともかく何でもいいから売れる方法を考えてこい!」
(出典:軍司貞則『ナベプロ帝国の興亡』-文春文庫-)

渡辺晋は「ナベプロ帝国」を築き上げた創設者であり、当時の社長。80年代前半、徐々に勢いを落としていたナベプロにとって、広島からやって来た吉川晃司は、イチかバチか、最後の賭けに出るに値する原石でした。

吉川晃司演じる民川裕司が、バタフライで泳いで東京湾にたどり着くという衝撃的なシーンから始まる映画『すかんぴんウォーク』と、シングル『モニカ』を軸としたメディアミックス・プロモーションは成功。84年2月発売の『モニカ』は33.9万枚を売り上げます。

ただ、当時の私は吉川晃司を、まだ色眼鏡で見ていました。ナベプロ出身ということもあり、「作られたアイドル」という感じがしたのです。本人の確固たる意志が見えにくいとも思っていました。しかし、吉川は、徐々に強烈な意志を打ち出していきます。

■吉川晃司「戦艦大和のひとつの砲台になるよりは掃海艇でいいんで、自分で荒波の中を操縦させてほしいんです。自分の船を持って、自分で海を渡りたいんです」
(出典:吉川晃司『愚 日本一心』-KADOKAWA-)

この言葉を渡辺晋に突き付けて、吉川晃司はナベプロを辞めます。ナベプロを辞めた多くのタレントが、それっきりになってしまうのですが、吉川は違いました。89年、布袋寅泰とのユニット=COMPLEXを結成、「ホップ」に続く「ステップ」に成功するのです。

チマチマした日本ロックを吹き飛ばすような巨大スケールの音。身長180cmを超える2人の見てくれも含めて、当時の私の心を魅了しました(拙著『恋するラジオ』-ブックマン社-にも詳しく書きました)。90年の東京ドームで行われた解散コンサートも、昨日のことのように憶えています。

という「ホップ」「ステップ」の流れを受けた「ジャンプ」が、『Virgin Moon』なのでした。COMPLEXを経て、さらに一回り大きくなった「シン・吉川晃司」のデビュー・シングル作曲と編曲に参加しているのは、アレンジャー&凄腕ベーシストとして有名な後藤次利。

後藤次利サウンドの妙味は、いい意味での下世話さだと思っています。かっこよさとベタさの共存。結果、『Virgin Moon』のような、間口が広い音を作るのです。そう言えば、ナベプロの大先輩である沢田研二が「シン・沢田研二」となったシングル=『TOKIO』(80年)の編曲も後藤でした。

「シン・吉川晃司」の方向性は、翌92年の傑作シングル『せつなさを殺せない』で完成します。伸びやかな声、圧倒的なサウンド。この曲の編曲は、沢田研二を長く支えたベーシストの吉田建。吉川晃司の「ジャンプ」は、有能なベーシストによって支えられていたのです。

さて、最後に「ピースナイター」の話。私は、この企画の告知に向けて、広島カープの公式ページに載った会話文に感銘を受け、保存していました――「お父さん、みんな何をしとるん?」「これはね、みんなで平和を願いよるんよ」

■吉川晃司「父は広島で入市被爆しており、僕は被爆2世です。(中略)原発問題の根底には、多くの差別や矛盾がある。立地、使用済み核燃料の行き先、働く人々……。事故は続いているのに、海外に原発を輸出する話まである。広島、長崎、そして福島の経験をした唯一無二の国が厚顔無恥では悲しい」
(出典:朝日新聞13年6月9日)。

被爆2世としてのアイデンティティが、原発問題をも他人事に終わらせなかったのでしょう。そして吉川晃司は「ピースナイター」の5回裏終了後、原爆の爆心地から1.8kmの場所で被爆した「被爆ピアノ」をバックに、ジョン・レノン『イマジン』を日本語で歌いました。

――♪放射能はいらない もう被爆もいらない

この試合を生放送で見ていた私は、吉川晃司の男気にクラクラしました。そして、思ったのです。約30年前、吉川の「確固たる意志が見えにくい」と勘違いした自分を蹴り飛ばしてやりたいと――吉川お得意のシンバルキックで!

  • スージー鈴木

    音楽評論家。1966年大阪府東大阪市生まれ。BS12トゥエルビ『ザ・カセットテープ・ミュージック』出演中。主な著書に『80年代音楽解体新書』(彩流社)、『チェッカーズの音楽とその時代』(ブックマン社)、『イントロの法則80's』(文藝春秋)、『サザンオールスターズ1978-1985』(新潮新書)、『恋するラジオ』(ブックマン社)など。東洋経済オンライン、東京スポーツ、週刊ベースボールなどで連載中。

  • 写真共同通信社

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