地震で崩落した10万個の石に番号を…熊本城再建プロジェクト
ボロボロだった天守閣が復活! 被害総額634億円、復旧20年計画
熊本震災から5年。地震で大きな被害を受けた熊本城の天守閣が復旧され、まもなく一般公開される。
あの日の夜明け、窓から見えるはずの天守閣が「ボロボロになっていた」衝撃。復旧までの道のり。崩れ散乱する石垣の石10万個の、ひとつひとつに番号を振り、積み直していく気の遠くなるような作業。完全復旧まで20年以上かかるという大プロジェクトだが「熊本県民の宝を、必ず取り戻す」という思いが満ち溢れる現場を取材した。
空港からバスで市街地へ到着して前を見ると、熊本城の天守閣が見える。熊本へ来たという実感がわく瞬間だ。
熊本の人にとっては、「毎日眺めるお城」であり、「せいしょこさん(加藤清正公・肥後熊本藩初代藩主)が建ててくれた熊本のシンボル」であり、誇りでもある。それだけに、熊本城の石垣ががらがらと崩れていくさまは、悲痛なものだったに違いない。5年前のあの日のことを語るとき、熊本の人の多くは目を潤ませる。
「4月16日の夜明け、市役所9階の職場から熊本城を見たときは本当に衝撃を受けました。天守閣が、石垣が、あんなふうに壊れるなんて思ってもみなかった」
熊本市文化市民局、熊本城総合事務所副所長の濵田(はまだ)清美さんは、5年前の朝を、昨日のことのように振り返る。
警察消防はもちろん公務員も、災害時には可能な限り参集する義務がある。濵田さんも同僚の夫とともにいち早く市役所にかけつけた。そして夜明けに、熊本城の惨状を目にしたのだ。
熊本城はもともと中世にあった千葉城、隈元城を取り込んで、加藤清正が江戸時代初期に築城したもの。その後も城域の拡張と増築が盛んにおこなわれて今のような姿になった。
それが2016年4月14日、16日の2度、震度7の地震にあい、重要文化財建造物に指定されている13棟すべてが傷ついたのだ。倒壊2棟、一部倒壊3棟をはじめ、屋根や壁が破損した。復元された建造物も20棟すべてが被災した。石垣作りが得意だった清正公は、この熊本城において、はじめ緩やかな勾配のものが上部に行くにしたがって垂直に近くなる「武者返し」と呼ばれる形状の石垣を多用した。これによって城を攻めてきた敵は、石垣を上ることができない。そんな自慢の石垣も全体の30パーセントが被害にあい、全体の10パーセントが崩落した。現在わかっている被害総額は、634億円にのぼる。
当時、濵田さんは住宅の耐震改修関係の部署にいた。被災の翌年、異動で熊本城を担当することになったのだ。
「地震直後は、とにかく何から始めたらいいのかわからなかったと当時の関係者から聞きました。ただ、不幸中の幸いだったのは、人的被害がなかったことです。また、地震の前年度までにすべての石垣の写真を詳細に撮り終えていたのも、石垣の復旧にとって幸いでした」
もともと熊本城は「そのほとんどの土地の所有者は国、重要文化財建造物の所有者も国、特別史跡熊本城跡公園の管理団体は熊本市」という位置づけだ。熊本城を維持管理していくためには、調査研究が不可欠として、2013年度に調査研究センターが設置されていた。2007年に築城から400年を迎え、歴史を振り返って修復の履歴や調査を残しておく必要があったのだ。石垣のすべての写真を2015年度中に撮り終えていたことで、修復の資料ができていた。
「ただ、石垣が危険だという認識は、じつはなかったんです。それだけ普通では考えられない地震だったということですね」
復旧の前に、まずは被害を拡大させないための緊急対策がとられた。市道や民地に崩落した石材や櫓の部材を回収、各建造物の安全対策をおこない、工事車両の動線を造った。1年をかけて、工事にとりかかる準備がなされたのだ。
同時に、熊本城復旧基本計画策定委員会ができ、熊本大学を始めさまざまな分野の専門家たちとの会議も何度もおこなわれた。「5年後に天守閣を復活させる」ことを目指すと同時に、「熊本城が修復されていく過程をオープンにする」ことも決定した。
「熊本城は市民、県民にとって大事なものですが、都市公園として文化財として、また観光にとっても重要な場所。お城が見えなければダメなんですよね。そこで修復の過程をみんなが見られるようにしたんです。文化財の復旧の『見える化』は今までなかったと思うんですが、それができれば気持ちも前向きになると考えました」
復旧工事が始まり足場が組まれるころには養生ネットを目の粗いものにして、ネット越しに街中からも天守閣の輪郭が見えるようになった。崩落したしゃちほこは新しくなり、お城のすぐ下の観光施設「桜の馬場 城彩苑」でお披露目された。
天守閣そのものは明治に入ってからの西南戦争直前の火災で焼失、第二次大戦後に県民からの再建の声が高まって、1960年に鉄骨鉄筋コンクリートで外観復元されたもの。
「だから今回復旧するのに現行の建築基準法への適合は必要ありませんでした。外観を維持した上で、耐震制震などできるだけ内部の安全性を高めるのは必須です。そしてそれ以外に何を優先するかを考えた結果、隙間を見つけてエレベーターを設置したんです。車いすの方も高齢者の方も、これで天守閣にあがることができます」
「見える化」するためには、天守閣を眺めるための通路も必要となる。工事用動線とは別に、地上6メートルに「特別見学通路」が作られ、昨春開通した。
「この通路ができて近くからお城を見たとき、本当にホッとしました。やはり市民のための場所なんだと再認識したし、みなさんのうれしそうな顔を見て、復旧が遅れてはいけないと改めて感じました」
見学通路からは石垣もよく見える。通路は、万が一また地震があって石垣が崩れたとしても影響が出ない場所に造られている。
この5年間で、のべ8万人の建築関係者が関わり、天守閣だけでなく他の建造物もどんどん復旧が進んでいる。
崩落石にはひとつひとつ番号をつけ、石材種も分析した。石材種がわかることで、どのあたりから運ばれてきた石かを推測できるのだという。現在、二の丸広場に仮置きされているのは、石垣の築石と裏ぐり石で、その数約3700個。こういった石材はトータルで10万個に及ぶという。これを全て元に戻すのは、途方もない作業だ。
飯田丸五階櫓についても尋ねた。覚えている人も多いと思う。被災したとき土台となっている石垣が大きく崩れてえぐれ、角の石垣だけで支えられていた建造物だ。「奇跡の一本石垣」とも呼ばれていた。地震直後、ひっきりなしに余震が起こるなかで、「もしあの飯田丸五階櫓が崩れたら、自分の気持ちももう持ちこたえられないと思った」と話してくれた熊本市民もいた。
その一本石垣にかろうじて支えられた櫓はいち早く工事が入り、倒壊防止のため、一本石垣を含む建造物の一部を鉄骨で抱え込むように支えた。石材回収作業は危険なため無人の遠隔操作施工という方法をとった。現在、解体した飯田丸五階櫓は大事に保管されている。石垣内部からは、加藤清正時代の築城当時の石垣が埋没しているのも発見されたという。
「今後、さらに熊本城の復旧が進んでいきます。完成予定は17年後。私は定年でもういませんね(笑)。長い時間がかかるので根気が必要ですが、文化財が復旧されていく過程を見ることができるのは貴重だと感じています」
熊本城を愛する市民、県民待望の「天守閣内部一般公開」は、4月26日に予定されていたが、新型コロナ対策で延期になった。それでも、窓の外に目をやると、あるいは路上から見上げると、向こうに天守閣が見える。熊本はそういう街なのだ。そんな「ごく当たり前の日常」が、ようやく少しだけ戻ってきている。
- 取材・文・撮影:亀山早苗
- 写真提供:熊本城総合事務所
フリーライター
1960年東京都出身、明治大学文学部卒業後、雑誌のフリーライターに。男女関係に興味を持ち続け、さまざまな立場の男女に取材を重ねる。女性の生き方を中心に恋愛、結婚、性の問題に積極的に取り組む。『人はなぜ不倫をするのか』(SB新書)、『女の残り時間』(中公文庫)など、著書は50冊以上にのぼる