二度の「震度7」に負けなかった、熊本の人に会いに行った
くまモン愛ライターが歩いた熊本の現在と未来
「店を再建するまで4年半かかりました。長かった。地震は天災だからしかたがない。けれども…」
震度7の大地震が続けて2度襲った「熊本震災」。震災直後からこの街に通った。そして5年。熊本の人たちはどんな時間を過ごしてきたのか。会いに行ってきた。

同じ場所に再建できれば…
熊本県の営業部長兼しあわせ部長である「くまモン」に、現地で偶然出会ってから9年。熊本の魅力にはまって足を運ぶようになった。2016年4月のあの地震には、他人事ではないほど衝撃を受けた。
震災から2ヶ月後、熊本へ行って被害を目の当たりにした。以来何度も通った。5年目の今年4月、ずっと気になっている人、気になっている場所を尋ね歩いた。
被災後、県内でいちばん大きな仮設住宅だった「テ
「地震は天災だからしかたがないという側面もあります。以前と同
益城町では震災後、「新しい町作り」が標榜され、道路拡張、区画
「僕ら夫婦は3代目なんです。代々続く店だから、同じ場所で継続したい。だけど長い目で見れば、災害に強い町作りが必要だということもわかる。最初はそう考えていました。ただ、道路が4車線になる、そこに自分の土地がひっかかると知ったのは地元の新聞報道でした。それでも行政が寄り添ってくれるなら応じるしかないとも思っていた」
最初は、補償をしたうえで近くに代替地を提案するということだったが、その後、話が混沌としていく。まだ何も決まっていないのに、全壊した店の解体を公費にするかどうか決断を迫られもした。補償の話も代替地の件も立ち消えになっていく。町議、市議、県議などさまざまな議員に会って窮状を訴えた。町長にも、復興事務所長にも会った。話は聞いてくれたが誰も動かず、埒が明かなかった。
「1年目はなんとか頑張ろうと思うんです。2年目は不安が募っていく。3年目はその不安が気力を削ぐ。4年目はあきらめしかなくなる。納得はせんでも後悔せんようにしようとカミさんとふたり、がんばってきたんです」
周りの商店主たちの中には、店の再建を諦めて越していった人もいる。今も仮設住宅に住んでがんばっている人もいる。進んでも立ち止まっても苦しい状態。このままだともう前に進めなくなると矢野さんは考えた。心身ともに疲弊していたのだろう。そして補償もないまま、自力で今の場所に土地を見つけ、店を再建することに決めた。
「不信感とかはらわたが煮えくり返るような思いとか、さまざまな感情があります。道路拡張にひっかかるとたくさんお金をもらえるけん、と言われましたが、むしろよけいな借金を数百万、背負いました」

それでも「ここでやっていくと決めた以上はがんばるしかない」と腹をくくった。「おやつプリン」として販売していた看板商品の名称を「益城プリン」と変えた。矢野さんの「益城町への愛」だ。
矢野さんが試行錯誤して作り出したプリンは、牛乳と卵と砂糖のみで作る。こだわり抜いた素材のおいしさが生きた、とろりと口溶けのいい優しい味がする。
「仮設住宅の女神」にも会いに行った
そこから車で5分ほど離れた場所には、以前から会いたかった「町作りの女神」吉村静代さん(71歳)が住んでいる。吉村さんは「NPO法人 益城だいすきプロジェクト・きままに」代表理事だ。当時、益城町の住人1500世帯は、18カ所の仮設住宅に暮らしていたが、吉村さんは各仮設住宅の自治会連合会の代表を務めていた。
若いころは東京、大阪、広島などで生活したこともあるが、ふるさと益城に家族で戻ってきて30数年。ここ30年ほどは地域の町おこしやボランティアの人材形成などを積極的におこなってきた。
「それほど堅苦しいものではないんですよ。もともと人が好きで、私の友人はあなたの友人、とどんどん人をつなげていくのが楽しいだけ」

実家には朝から晩まで家族以外の誰かが出入りしていたという。こだわらない、気にしない、みんなで楽しくは両親から受け継いだもののようだ。
熊本地震のとき、吉村さんは車中泊のあと、近くの小学校の体育館に避難した。
「雑然としていたので、まずはみなさんに声かけして、床にテープを貼り、2カ所の非常出口と避難通路の確保をしました。身の回りの整理整頓、布団をたたんだり粘着テープでの清掃などを呼びかけたりもしました」
避難所の一角にコミュニティスペースを作った。被災者が集まって会食したり談笑したりすることで、避難所の人間関係が順調に形成されていったという。一度も言い争いの起こらない避難所だった。長年のボランティア活動を通じて、吉村さんには全国に友人知人がいる。その友人らも、いち早く駆けつけてくれた。
「避難所とはいえ、私にとっても住む場所です。そこは快適で自由で楽しいほうがいい。
時間がたてば、避難所をベースに仕事に出かける人もいるし、昼間は自宅に戻って片付けに追われる人もいる。だから避難所では『役割』を作らなかった。気づいた人が自分のできる範囲でやればいい。家に戻って花を摘んでくる人がいると、避難所でそれを活ける人がいる。私は料理が苦手なので、全部人任せ。味見だけする(笑)」
このおおらかさは、テクノ仮設でも同じだった。仮設住宅に隣接する県有地を直談判して借り、みんなで荒れ地を整備して、子どもたちが安心して遊べる場所を作った。桜祭りをはじめ、さまざまなイベントも開催。大所帯の仮設住宅をまとめあげた力量は高い評価を受けた。
「仮設に入る前に、東北の被災地で仮設住宅を見学したり、住んでいる方たちに話を聞かせてもらったんです。知り合いもいないのに福島県庁に電話をかけて頼み込んだりもしましたね。考えるより先に動いてしまうんですよ」
人の顔が見える仮設住宅を作りたい、誰も孤独にならないようにしたい。1泊2日で東北へ出向いてたくさんのことを得て帰り、仮設住宅造りに生かしたのだ。その行動力に頭が下がる。
「あんたと知り合うと頼みごとばかりされるわ」と周りは笑うという。だが彼女の真摯な姿勢に誰もが協力してくれる。人が人をつなぎ、さらに人を呼ぶ。その力は昨年7月の九州豪雨でも生かされた。吉村さんは被害の大きかった人吉に入り、現地の親しい仲間たちと合流、支援物資のとりまとめやボランティアの受付などを買ってでた。
「自分ひとりじゃ何もできません。私は同じ一生を生きるなら楽しく生きたいだけ。そのためには仲間が大事なんです」
震災の爪痕を「そのまま」ミュージアムに
熊本県では「熊本地震 震災ミュージアム 記憶の回廊」の整備を進めている。ミュージアムといっても「館」はない。県内に点在する震災遺構を巡るものだ。県と8つの市町村が連携して運営する。
益城町の教育委員会の学芸員である堤英介さんと森本星史さんが「布田川断層帯」のずれが激しかった地点を案内してくれた。中でも衝撃的だったのは、杉堂地区の潮井神社だ。本殿前に長さ4メートル、落差70センチの断層が表出、大木が根っこから倒れている。そのすぐ脇には、潮井水源というきれいな湧き水が出ており、地震前は水を汲みに来る人たちも多かったという。倒れた木と湧き水の対比が自然の残酷さと美しさを感じさせ、なんともいえない気持ちになる。


震災ミュージアムの中核拠点のひとつが、南阿蘇村の旧東海大学阿蘇

南阿蘇村の立野峡谷付近では、大規模な山腹崩壊や阿蘇大橋の崩落跡など、生々しい地震の爪痕を見ることができる。そのすぐ脇を、今年3月にできたばかりの新阿蘇大橋が雄大な景色を貫くようにかかっている。崩壊と再生が人の死生と重なり、地震によって命を落としたすべての人たちに静かに手を合わせた。
温泉旅館を再建して阿蘇を盛り上げたい
南阿蘇村の入り口には栃木(とちのき)温泉がある。明治時代から続く老舗旅館のひとつ荒巻旅館は、泉源が被災したため再建を断念。しかし、風光明媚な土地にあるこの旅館をなんとか継承したいと立ち上がったのが、阿蘇市・内牧(うちのまき)温泉の旅館「蘇山郷」の社長・永田祐介さん(48歳)だ。高校時代の同級生で実業家の松原正恭さんに相談し、ふたりで新たな会社を設立して土地建物を買収、温泉の権利なども引き継いだ。
「この場所を確認するために訪れたのが2019年の秋。今でもはっきり覚えています。敷地に入ってくるあの坂道を登ってくるとき、紅葉がきれいでね。敷地に入ってふっと見ると阿蘇の景色が一望できる。こんな素晴らしい場所をこのまま放っておいてはいけない。そう思いました」(松原さん)
「ふたりとも高校生に戻ったみたいにわくわくしながら計画を立てました。とはいえ、ビジネスとして成り立たなければいけない。だから熊本には今までなかったようなリゾートホテルにしよう、ということになって」(永田さん)

リゾートホテルといえばプールだ。どうしてもプールがほしいと松原さんは「だだをこねた」らしい。ちょうどそのころ泉源を掘る莫大な経費に頭を痛めていたが、プール水用の井戸を掘っていたら、地下200メートルという浅いところで元の源泉と同じ泉質の湯が湧き出すという幸運に恵まれた。
「アコンカグア」という名のこのリゾートホテルには、滞在型、ファミリー型などさまざまな部屋を12室用意する。約5000坪の敷地にはキャンプ場も整備するが、従来の1泊2食形式ではなく、夕飯は宿では提供しないという新しいスタイルをとる。
「その代わり、地元の飲食店と提携して送迎サービスをします。キッチンがあるから地元の食材を使って料理してもらってもいい。できればここを拠点にして阿蘇で何泊も、ゆっくりしてもらえたらもっとうれしいですね」(永田さん)
阿蘇全体を盛り上げたいという気持ちが伝わってくる。
「結局、自分たちが泊まりたいホテルを作っただけという気もしますけど」
工事中の「アコンカグア」は、この夏のオープンを目指している。
地震で失ったもの、新たに得たもの。被災者や地元の人たちは5年たった今も、まだまだ複雑な感情を抱きながら暮らしている。
永田さんの経営する旅館「蘇山郷」から阿蘇駅への途中で、それまで降っていた雨が急にやみ、目の前に阿蘇五岳が突然、その姿を現した。阿蘇五岳はよく「涅槃像」に例えられるが、私は初めて自分の目でそれを明確に認識した。頭を左にし、うっすらと盛り上がった胸のあたり、そして足を組んだ姿。その額のあたりに一筋の陽が差しこみ、顎のあたりに薄い雲が漂っている。あまりの美しさに言葉を失った。
「熊本には3つの宝があります。熊本城と阿蘇とくまモンです」
蒲島郁夫知事の言葉がよみがえる。人知を尽くして建てられた熊本城、人々を救うように突然現れたくまモンという生き物、そして自然の怖さも美しさも内包した阿蘇。熊本を訪ねるたびに身のうちにしみこんでくる、たゆとうようなおおらかな豊かさは、この3つの宝があいまって生まれたものなのかもしれない。









取材・文・撮影:亀山早苗