池田小事件・宅間守の親族が初めて明かした「実父の最期」 | FRIDAYデジタル

池田小事件・宅間守の親族が初めて明かした「実父の最期」

事件から20年近く、実父は生家に住み続けた。畳は雨漏りで腐り、居間は足の踏み場もなかった。実父はなぜその家に死ぬまで住み続けたのか。

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01年6月、大阪地検へ送検される宅間元死刑囚

「他界したのは、20年4月です。19年12月、あの人が『コンコン』と咳をしていたんです。それで20年2月に病院に検査に行って、レントゲンを撮ったら、すぐにがんだとわかりました。体力も落ちていましたし、食欲もなかったようで、『もう長くはないぞ』と自分で言うてました。覚悟していたんやと思います」

そう語るのは、宅間守死刑囚(04年に死刑執行、享年40)の親族。「あの人」というのは、宅間の実父のAさんのことだ。

6月8日で「池田小事件」から20年が経った。01年6月8日、宅間は大阪府池田市にある大阪教育大学附属池田小学校に出刃包丁を持って侵入。児童8名を殺害し、児童と教員15名に重軽傷を負わせた。抵抗ができない児童を狙うという卑劣極まりない凶悪事件である。

幼い宅間を抱く、父のAさん

そんな池田小事件の加害者である宅間の実父のAさんが、20年4月に亡くなっていたことがわかった(享年88)。死因は肺がんだったという。宅間の親族の一人が、事件後初めて取材に答えた。

「あの人(Aさん)も私たち親族も、事件当時はもちろん、その後もマスコミにえらい目にあってるんですよ。家にひっきりなしに電話がかかってきたり、住んでいた家の前で待ち伏せされたり……。普通やったら引っ越そうとすると思うんですが、逃げるような形になるのが嫌だったんでしょうね。あの人はずっと兵庫県にある家に住み続けていました」

事件発生直後から、Aさんへのバッシングは起きた。一時は「Aさんが命を狙われている」という噂が流れ、自宅前にパトカーが常駐していた時期もあった。それでも宅間の生家でもある自宅にAさんは住み続けた。自宅は元々、阪神大震災で建物の一部が傾いており、お世辞にも綺麗とは言い難い。妻は早くに介護施設に入っており、長く一人暮らしだった。

17年に自宅を訪れた際、Aさんは本誌記者にこう語っていた。

「家の中は座ることもできないんや。奥は雨漏りで畳は腐っている。居間は足の踏み場もない。悪いな」

前出・親族はこう話す。

「すごい生活をしていましたよ。それでも『ここ(自宅)で一人で寝るように死ねたらな』と言っていました。自責の念もあったんでしょうね。あの人なりの償いの気持ちもあったと思います」

01年の事件発生以来、Aさんはずっと悔恨の念にかられてきた。

小学校時代には拾ってきた仔猫を浴槽に沈めて殺してしまったり、成人してからも強姦事件を起こすなど悪行の限りを尽くしていた宅間のことを、Aさんは「あいつを殺し、心中することも考えた」と思っていたという。しかし、どうしても実の子を手にかけることはできなかった。そうして01年、Aさんの感じていた不安は最悪の形で現実のものとなってしまった。

04年に宅間の死刑が執行された際、Aさんは本誌記者にこう漏らした。

「息子の処置を親父さんに任すといわれたら、ワシはすぐにクビを落とす」

事件を防ぐことができなかったことへの後悔、そして被害者へのせめてもの償いの思いから、荒れ果てた家でひとり暮らし続けた。宅間の部屋も、そのままにしていたという。

そんなAさんが20年4月に亡くなり、自宅も同年9月に取り壊された。親族の間で「すべて綺麗にしたほうがいいんじゃないか」という話になったからだ。いま自宅があった場所は更地になっている。自宅近くにあった墓も、20年の初夏頃に「墓じまい」をしたという。親族はこう話す。

「コロナでほとんど見舞いもできませんでした。あの人(Aさん)は最後、『俺の人生、なんやったのかな』と言うてましたわ。一番最後に。私もかける言葉がなくて、黙ってしまいました」 

関わった人たちのすべての人生を奪い、狂わせた事件から20年が経った。

  • PHOTO小林俊之、小松寛之、加藤慶

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